我々は、以上のすべての事柄を意図的に詳細に吟味した。それは、(聖文書の言葉を)検討しなかったにもかかわらず、理解したと自惚れ、我々の諸々の事柄の単純さを蹂躙する者たちに対抗するためである。そして我々は、彼らが神について想像している諸々の事柄に対しても、彼らが諸々の本性について教えている諸々の事柄に対しても、目下、検討されている(聖文書の)言葉は、彼らが考えるようには寄与しないことを明らかにした。我々としては、多くの理由によって――神聖な諸文書からと、諸々の被造物の雄大な働きと秩序とから――、数々の見える事柄も見えない事柄も、数々の一時的な事柄も永遠的な事柄も[1](それらを)創造した神に由来すると確信している。その神は、主なる我々の救い主の父――善良なる神、義なる神、知恵ある神である父――とあらゆる点で同一である。我々は、次の目標に(聖なる)諸文書を導くように努力した:すなわちその目標とは、すべてのものは善良なる神、義なる神、知恵ある神に属していることを証明することである。ただし、そのことは、理解力のある人たちに気づかれないと我々はつゆほども想像していないし、諸々の言われた事柄がその善良さと義と知恵に適合しているか否かについては、救い主なる神を我々は必要としているけれども。



[1] Cf.Co.4,18.