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 また、多くの人たちに対する諸々の預言的な脅迫の中に、次のことが言い添えられているのを見逃してはならない:「彼らは、私が主であることを知るだろう[1]」。それらの脅迫は、イスラエル人たちに対してばかりでなく、エジプト人たちにも、アッシリア人たちにも、民のその他の敵たちにも向けられている。その言葉は、最終的に多くの脅迫が(そこに)認められるが、『出エジプト記』にも記載されている:「エジプト人たちは皆、私が主であることを知るだろう[2]」。こうして災難と考えられている諸々の出来事が彼らにもたらされるが、それは彼らが主を知るためである。『マカバイ記』には、何かしらそれに類することが言われている:「私は、この書の読者たちが数々の不遇によって気落ちしないように激励する。むしろ諸々の出来事は、破壊のためではなく、我々の種族の教育のためであると考えるように激励する。不敬虔な者たちが長時間にわたって放置されず、直ちに数々の懲罰に陥ることは、大きな善意の印しである。他の諸民族の場合、彼らの諸々の罪が極まるのを忍耐強く待った後に、主は彼らを裁く。しかし主は、我々の場合には、同じように裁かなかった。主は、不遇を通して教育するとき、ご自分の民を放置しない[3]」。実に、諸々の罪によって諸々の懲罰に陥ることが大きな善意の印しであるとすれば、ファラオも、彼の心が固くされた後に懲罰を受け、彼の民と同時に懲らしめられたが、虚しく懲罰を受けたのでもなければ、彼自身の禍のために懲罰を受けたわけでもないのか否かを、あなたはお考えください。

ダビデは、あたかも神の模倣者のごとくになり、諸々の好機を顧慮しつつ、ヨアブについて、彼をネルの子アブネルに対する諸々の罪のゆえに懲らしめ、諸々の犯罪のゆえに彼を殺すように命じ、次にこう付け加えている:「そしてあなたは、彼の白髪を平和の内に黄泉に降らせなさい[4]」。ヘブライ人(の改宗者)も我々に語っているように、彼が、懲らしめられることによって平和の内に眠るというのは明らかである。なぜなら彼は、ここで既に拷問と懲らしめを受けており、ここからの出立の後、もはやそれらを負う必要はないからである。

 同様に我々は、すべての脅迫と苦痛の懲らしめなど、神から加えられた諸々の事柄は、決して(それらを)被る人たちを害するものでなく、常に彼らのために起こると理解している。さらに諸々の言葉の中でも、神に帰するのは極めて困難であると考えられるもの――怒りと憤り、譴責することと躾けること――も、次の言葉の中で言われている:「主よ、あなたの憤りによって私を譴責しないでください。また、あなたの怒りによって私をしつけないでください[5]」。それらのことを祈願する者は、神の憤りによる譴責と、彼の怒りによる躾を必要とすることのないように願っている。なぜなら神の憤りによって譴責され、彼の怒りによって躾けられる人たちがいるからである。



[1] Ez.7,27 etc.

[2] Ex.7,5.

[3] 2M.6,12-16.

[4] 1R. マソラ本や七十人訳では、「・・・降らせてはならない」となっている。

[5] Ps.6,2; 37,2.

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