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8 語られた諸々の事柄を我々がよりよく受け入れるために、新約からの諸々の類似の言葉を利用すべきである[1]。救い主は次のように言っている:「私は、地に火を投げ入れるためにきた。地がすでに着火していればどんなによかったか[2]」。もしも、彼が地に投げ入れにきた火が救いをもたらすものでなかったら――人間たちにとって救いをもたらすものでなかったら――、善き神の子はそれらのことを言わなかっただろう。そればかりか、人間たちに対してでなく、主に対して嘘をつくという罪を犯したアナニアとサフィラを言葉によって滅ぼしたペトロも[3]、その出来事を見ることによってキリストへの信仰を厚くする人たちの建徳を顧慮するばかりでなく、滅びる人たちの建徳も顧慮していた。彼は、彼らが予期せぬ突然の死によって浄められ[4]、身体から解放されることを望んでいた。なぜなら彼らは、自分たちの財産の半分を困窮する人たちの必要のために提供することによって正義に幾らかを持ち合わせていたからである[5]。パウロも、「地方総督セルギウス・パウロスと交際のあった人[6]」を言葉によって盲目し、数々の苦悩を通して敬神へと回心させる際、彼に次のように言っている:「ああ、あらゆる欺瞞とあらゆる無謀に満ちている者、悪魔の子、あらゆる正義の敵よ、お前は、主の諸々の真っ直ぐな道を曲げることをやめないのか。いま、お前は盲目になり、然るべき時機まで太陽を見ないだろう[7]」。ところで、彼が諸々の罪ゆえに咎められ、試練にかけられ、改悛し、次の二つの仕方で太陽を見るに相応しい者となるとき以外のどのような時機があるだろうか:一つは、身体に即して――それは彼の視力の回復によって神的な力が表明されるためである。もう一つは、魂に即して――それは、信者として敬神に喜びを見いだすときである。さらに彼が、「(神を)冒涜しないことを教えるために[8]」サタンに渡したデマスとヘルモゲネスも、いま述べられた諸々の事柄と何かしら似たようなことを体験した。また、父の妻を得ていたコリントの或る人物も[9]、「主の日に霊が救われるよう、肉の滅びのためにサタンに渡された[10]」。

 したがって、ファラオが固くされ、結局は以上のようにひどい諸々の懲らしめを受ける羽目に陥ったことに関しても、神の善性からの経綸であるとしても驚くべきことではない。以上が、「主はファラオの心を固くした[11]」ということに関して、我々に思いつく限りで述べたということにしよう。もしもある人が、神への敬虔性を保持しつつ、不敬虔に決して触れない一層優れた諸々の事柄を、神的な諸文書からの諸証言をもって見いだすなら、むしろそれらの事柄を利用すべきである。



[1] 脅迫や苦痛は人を害するも人を利するものであるという前節で提示された原則に従って、オリゲネスは、神の怒りや憤りに関する弁神論を展開する;cf.Hom.Jr.XVII,6; XX,1; fr.56 in Jr.; Hom.lat.Jr.II,5; Hom.Ez.I,2; II,5; Hom.Nb.VIII,1; Com.Mt.XV,11; C.Cels.IV,71-72.

[2] Lc.12,49.

[3] Cf.Ac.5,4.

[4] Cf.2M.6,12-16.

[5] アナニアとアフィラの死については、次を参照Com.Mt.XV,15.

[6] Ac.13,7.

[7] Ac.13,10-11.

[8] 1Tm.1,20:サタンに渡されたのは、「ヒメナイとアレクサンドロ」であるが、オリゲネスは、前者を「デマス」(2Tm.4,10)、後者を「ヘルモゲネス」(2Tm.1,15)と混同しているように思われる。

[9] Cf.1Co.5,1.

[10] 1Co.5,5.

[11] Ex.9,12; 10,27; 11,10.

 

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