第3章[1]

 神感を受けた巻物はなぜ二十二巻なのか。

同じ詩篇第一番注解からの抜粋。

 諸々の数に関する問題において、それぞれの数が諸々の存在者の内に何らかの力を有していて――実に万物の創り主は、全体の構成に際しても、その諸部分の任意の種の構成に際しても、数の力を利用したのである[2]――、聖書の諸々の箇所から、それらの数に関する事柄や、それらの数の一つひとつに関する事柄に注意を払い、追跡しなければならないのであるから、契約の諸書も、ヘブライ人たちが伝承するように、二十二あることは、――これは彼らの許にある字母[3]の数と同じである――理に反したことではないと知らなければならない。ちょうど二十二の字母が、知恵への手引き[4]、そして、人々のためにこれらの文字[5]によって刻印された神的な諸々の教養[6]への手引きであると思われるように、神感を受けた二十二の巻物は、神の知恵への初歩的な手引き[7]であり、諸々の存在者の認識への手引きである[8]



[1] おそらく本抜粋は、第二章に引用された抜粋と同じく、詩篇全体の注解の序文からの引用であろう。本章では、数字の22の象徴的解釈が問題になっている。オリゲネスが、ここで数の象徴的解釈に言及する理由は幾つか考えられる。その一つは詩篇の各節そのものに番号がついているということである。しかし、紀元後二世紀に遡るユダヤ伝承によると、まさにこの詩篇第一番の冒頭に出る「幸いなるかな」に相当するヘブライ語がヘブライ語詩篇全体で二十二回使われているとされている。オリゲネスはこの伝承を知っていたかもしれない。ただしその語は、ギリシア語の七十人訳聖書では、二十六回使われている。Cf.N.R.M.de Lange, Origen and the Jews, p.175, n.24.

[2] Cf.Hom.Nb.IV,1:「彼ら(ヘブライ人たち)は、すべての被造物の種は二十二個であると言っている」。

[3] stoicei,a)

[4] eivsagwgh,)なお、「手引き」や「初歩的な手引き」などと前後で訳した諸々のギリシア語はストア派の述語である。Cf.SVF, 2, 127:stoiceiou/n kai. katastoici,zein tou.j eivsagome,nouj avpVavrch.j me,cri te,louj):「元から終わりまで手引きされる人たちを手引きし初歩を教えること」.

[5] carakth/rej)

[6] ta. qei/a paideu,mata)

[7] stoicei,wsij)

[8] Cf.Com.Lm.fr.3(GCS 3, 236,8-10):「ヘブライ人たちは次のように言っている。旧約の諸書は、(ヘブライ語の)字母と同じ数である。したがって字母が勉学に励む人たちにとって一切の知恵への手引きであるのと同様に、旧約の諸書は一切の神的認識への手引きである」と。