次に彼は、福音記者の文法上の誤りについて語り、次のように付言している。

 使徒たちは、自分たちが躓いた諸々の事柄について無知であったわけではなく、かといってそれらの事柄に専念したわけではない。そこで彼らは、「説明において素人であっても、知識においてそうではない[1]」と言っている。このことは、パウロによってだけ言われたものでなく、他の使徒たちによっても言われ得るものだということが認められねばならない。さらに、「私たちは、このような宝を諸々の土の器の中に持っています。それは、力の卓越性が神のものであって、私たちに由来するものではないようにするためです[2]」という言葉も、我々は、次のように理解している。すなわち、別の箇所で(言われている)知識と隠れた知恵との宝[3](ここで)宝と言われるとともに、ギリシア人たちの間で蔑まされている聖書の粗末な表現が諸々の土の器と言われているのであって、その目的は神の力の卓越性が真に現れるためであると。実に真理の数々の神秘と、語られた諸々の言葉の力とは、粗末な表現によって地の諸々の果てにまで行き着く[4]のを妨げられることなく、この世の諸々の愚かな事柄ばかりでなく、時にはこの代の諸々の賢い事柄をもキリストの教えの下に導くことができたのである[5]。「実際、私たちは、召し出しを考えてみましょう。肉によれば賢い者は誰もいないといわけではなく、肉によれば賢い者は多くはない[6]」とある。そればかりかパウロは、福音を宣べ伝える際、非ギリシア人たちにばかりでなく、ギリシア人たちにもみ言葉を伝えることを義務としていたのであり、安易に同意する愚か者たちばかりでなく、賢い人たちにもみ言葉を伝えることを義務としていたのである[7]。実際、彼は、神によって、「新しい契約の奉仕者[8]」となるのに相応しいものとされ、「霊と力の証明[9]」を利用したのであった。それは、信じた人たちの同意が、人々の知恵によるのではなく、神の力によるようにするためである[10]。なるほど、もしも聖書に、ギリシア人たちの間で賞賛されているような表現の華美や綾があったなら、おそらく人は、真理が人々(の心)をつかんだのではなく、(文面に)現れた首尾一貫性と表現の華美[11]が聴衆の心を捕らえ、彼らを欺き魅了したと憶測しただろう。



[1] 2Co.11,6.

[2] 2Co.4,7.

[3] Cf.Col.2,3.

[4] Cf.Ps.18,5.

[5] Cf.1Co.1,27.

[6] Cf.1Co.1,26.

[7] Cf.Rm.1,14.

[8] 2Co.3,6.

[9] 1Co.2,4.

[10] Cf.1Co.2,5.

[11] 本断片(『ヨハネによる福音注解第四巻』)と同時期に書かれた『諸原理について』によれば、首尾一貫性のない矛盾した表現の内においてこそ、聖書の真の意味への探求がいっそう促進される。