次に、それぞれわずかのことしか、あるいはわずかのことさえ書かなかった預言者たちや使徒たちを枚挙してから、彼は次のように続けている。

 しかし、以上のことを述べてから、私は貴殿に従っておりながら、神には従っておらず、さらに聖なる人たちをも見習っていないのではないかという思いに襲われ、動転しております。そこでもしも私が自分自身を弁護して失敗しないとすれば――私は貴殿に全き友情を抱いており、何ごとにおいても(貴殿を)悲しませたくないと思っておりますゆえ――以上のことにつきまして、次のような弁明を見出しております。

 先ず私は、『箴言』から「我が子よ、多くの巻物を作ることを警戒せよ[1]」という言葉を引用いたしました。この言葉と、同じソロモンの箴言から取った言葉を比べて見ましょう。その言葉は次のように言っています。「あなたは、多弁によって罪から逃げることはできない。しかい唇を慎めば、あなたは賢明になる[2]」。そして、どのようなことであれ――たとえ人が神聖で救いをもたらす多くの事柄を語るとしても――多くを語ることが多弁を弄することであるのかどうかを、私は問いたいと思います。もしもこの通りだとしますと、有益な事柄を多くもたらした人は多弁を弄することになりますし、ソロモンでさえ罪を免れなかったでしょう。なぜなら彼は、レバノンの杉から壁を貫いて伸びたヒソプ[3]に至るまで、諸々の植物のためにさえ、さらには、諸々の家畜についても、諸々の鳥についても、諸々の這うものについても、諸々の魚についても、三千の例え話と、五千の賛歌を語ったからです[4]

 実際、より単純な意味で理解された多弁[5]がなければ、どのようにして教えは何らかの利益をもたらすことができるでしょうか。知恵自身も滅び行く人々に向かって次のように主張しています。「私は諸々の言葉を伸ばした。しかしあなた方は注意しなかった[6]」とあります。パウロも、朝早くから夜中まで教え延々と続けていたように見えます。だからエウテュコスは深い眠りに襲われて転落してしまし、彼が死んでしまったのではないかと、(パウロの話を)聞いていた人々を驚かせたのです[7]

 



[1] Si.12,12.

[2] Pr.10,19.

[3] 聖書ではレバノン杉に対比して、卑小なものに喩えられる。

[4] Cf.1R.5,12-13.

[5] 「文字通りの意味での多弁」という意味である。

[6] Pr.1,24.

[7] Cf.Ac.20,7-10.