ですからもしも「あなたは、多弁によって罪を避けることはできない[1]」ということが真実であり、またソロモンが上述の諸々の事柄に関して多くを語っても罪を犯さなかったことが真実であれば、さらにパウロも、夜中まで(話を)継続しても罪を犯さなかったのが真実であるとすれば、多弁とは何であるかが探求されねばなりませんし、そのことから、「多くの巻物[2]」とは何なのかを考察することへと移らなければなりません。

 さて、神の一切のみ言葉、元に神と共にあったみ言葉は、多弁ではありませんし、複数の言葉でもありません。実にみ言葉は、多くの観念から成り立つ一つのみ言葉であり、それらの観念の一つひとつはみ言葉全体の部分なのです[3]。これに対してそれ以外の諸々の言葉は、何らかの解決策や発言を含んでいると約束していても、たとえ真理に関わる諸々の言葉であったとしても、逆説的なことを言うことになりますが、それらのいずれも、(単数の)言葉ではなく、それぞれ複数の言葉なのです。実際それらは、決して唯一でもなければ、決して調和ある一でもありません。それらは、分裂したり対立したりするがゆえに、一を失っており、複数であり、おそらく無際限の数でしょう。したがってその点で、私どもは次のように言うことができるでしょう。そもそも敬神とは異質のことを話す人は多弁をするのであり、真理に属する諸々の事柄を語る人は、たとえすべての事柄を一つ残らず話すとしても、常に一つのみ言葉を語っているのです。そして一つのみ言葉にかなった意図を堅持する聖人たちは多弁をすることはないのです。ですから,もしも多弁が、多くの言葉の陳述によってではなく、諸々の教えによって判別されるとすれば、同じように私どもが、すべての聖なる巻物は一つの巻物であり、それら以外の諸々の巻物は多くの巻物であると言うことができるかどうか、貴殿はご考察ください。



[1] Pr.10,19.

[2] Si.12,12.

[3] lo,goj ga.r ei-j sunestw.j evk pleio,nwn qewrhma,twn( w-n e[kaston qew,rhma me,roj e,sti. tou/ o[lou lo,gou.