しかし私には聖書からの証言が必要なので、私がこのこと[1]を極めて印象的な仕方で証明することができるかどうか、貴殿はご検討ください。それと同時に、私どもが諸々の巻物を一般的な意味で理解すると、キリストに関して、私どもの考えでは、一巻の巻物の中に書かれているのではないということを、私は確認いたします。さて、(キリストに関しては)モーセ五書の中にも書かれています。また預言者たちのそれぞれにおいても、詩篇の中でも語られていますが、要するに、救い主ご自身が言っておりますように、(聖書の)すべての書の中で語られています。実際、救い主は、すべての書に私どもを差し向けて次のように言っています。「あなた方は、諸々の書の中で永遠の命を得ることができると思って、それらを調べている。しかしそれらの書は、私について証しするものである[2]」と。したがってもしも救い主が、ご自分を証しするものとして諸々の書へと私どもを差し向けているのであれば、彼は、あれこれの特定の書に差し向けるのではなく、ご自身について告げるすべての書に差し向けています。そして救い主は、それらの書を詩篇の中で巻物と名づけて、こう言っています。「巻物の中で、私について書き記されている[3]」と。「巻物の中で」という言葉を、救い主に関する諸々の事柄を含む諸々の巻物のどれか一つと単純に理解しようとする人は、どのような理由でその書物を他の諸々の書物よりも優先するのか言うべきです。実際、その言葉が詩篇の書物そのものに私どもを差し戻していると人が考えるには、(聖書の言葉は)次のように言われる必要があったと、その人に対して答えねばなりません。すなわち「私については、その書物の中に書き記されている」と。ところが、救い主はすべて(の巻物)を一つの巻物であると言っているのです。なぜならご自身に関して私どもの許に届いたみ言葉は一つに要約されるからです。では、「前方と後方」に(文字が)書き記され、封印された書物――ユダ族から出た獅子、ダビデの根[4]、ダビデの鍵を持つ方、彼が開ければ誰も閉じることなく、彼が閉じれば誰も開けるのない鍵を持った方[5]を除いては、誰もそれを読むことはできず、それら封印を説くこともできなかった書物――がヨハネによって見られたとは、どういうことでしょうか。実に、書物によって明らかにされているのは(聖書の)一切の書なのです。「前方に」書き記されているのは、その書物の手軽な理解のためであり、「後方に」書き記されているのは、後方に退いた霊的な理解のためです。



[1] 前節の最後の一文、すなわち「すべての聖なる巻物は一つの巻物であり、それら以外の諸々の巻物は多くの巻物であると言うことができるかどうか」ということをさす。

[2] Jn.5,39.

[3] Ps.39,8.

[4] Cf.Ac.5,1-3,5.

[5] Cf.Ac.3,7.