以上に加えて、生ける人たちに関する書物は一つであり、その書物に不相応になった人たちはその書物から抹消されるということが、諸々の聖なる事柄は一つの書物であり、それに対立する諸々の事柄は多くの書物であることを証明し得るかどうか、詳細に検討すべきです。次のように書かれています。「生ける者たちの書物から彼らは抹消されねばならない[1]」。しかし裁きに服することになった人たち対しては、複数の書物が持ち込まれます。実際ダニエルは、「法廷が設置され、諸々の書物が開かれた[2]」と言っています。モーセも聖書の一性を証しして、次のように言っています。「もしもあなたが民のために罪を赦すなら、お赦しください。しかし、そうでないなら、あなたがお書きになったあなたの書物から、私を取り去ってください[3]」とあります。私は、イザヤ書にある言葉も同じように受け取りたいと思います。すなわち、巻物の諸々の言葉が封印されていて、文字を知らない人によっては、文字を知らないがゆえに読まれず、(文字を)知っている人によっては、その巻物が封印されているがゆえに読まれないということは[4]、その預言に固有のことではなく、かえってそのことは一切の書にも真実に当てはまるのです。なぜなら一切の書が、開いては閉じるみ言葉を必要としているからです。「実にその方が閉じれば、誰も開くことはできないだろう[5]」とあり、その方が開けば、その方による明晰さに、もはや誰ひとり異を唱えることはできないのです。そのようなわけで、その方が開ければ、誰も閉じることはできないと言われているのです。同様のことを、やがて言及するエゼキエルの書物においても、私は理解したいと思います。その書物の中に、「哀歌と唱歌と嘆きが書き記された[6]」とあります。一切の書物は、失われた人たちの嘆き、救われた人たちに関する唱歌、そしてその中間にある人たちの哀歌を含んでいます。

 しかし、「前方と後方に」(文字の)書き記された一つ巻物を食べたヨハネは、一切の書を一つの巻物として理解しました。それは、噛み締めれば先ず極めて甘いものとして理解され、それを読む人たちの一人ひとりの自意識に対して苦いものとして現れます[7]。さらに私は、このことの証明のために、使徒の言葉を付け加えたいと思います。その言葉は、マルキオン派の人たちによって理解されませんでした。そのため彼らは複数の福音を斥けました。すなわち使徒は、「キリスト・イエスにおける私の(単数の)福音によれば[8]」と言っていますが、複数の福音とは主張していません。彼らはこのことに着目して、福音が多く存在するとすれば、使徒は単数形で福音に言及することはなかったはずだと言い張っています。彼らは、多くの人々が喜ばしく告げた方が一人であるように、多くに人々によって書かれた福音は価値において[9]一つであり、四つの福音を通して真実に唯一の福音となっていることを理解していないのです。



[1] Ps.68,29.

[2] Dn.7,10.

[3] Ex.32,32.

[4] Cf.Is.29,11-12.

[5] Cf.Is.22,22; Ap.3,7.

[6] Ez.2,10.

[7] Cf.Ap.10,10.

[8] Rm.2,16.

[9] 「価値において」と訳したギリシア語は、直訳すると「力において」ということになる。もちろん原語は、th/| duna,meiである。