第6章

聖書全体は、神の完全で調和の取れた一つの楽器であること。「平和をもたらす人は幸い[1]」に関して、『マタイによる福音注解[2]』第二巻からの抜粋。

 しかし、それぞれの仕方で平和をもたらす人にとって、神の諸々の託宣の中に、捻じ曲がったものは、もはや何も存在しない。なぜなら「すべてのものが、理解する人たちにとって直立している[3]」からである。そして、そのような人にとっては、何ものも捻じ曲がってはいないのだから、それゆえその人は、(聖書の)すべての書の中に、しかも相互に対立や諸々の矛盾を含んでいるように見える諸書の中にさえ、「大いなる平和[4]」を見ます。しかし、他の人々にとっては諸書の対立と見えるものも――新約の諸書に対する旧約の諸書の対立であれ、諸々の預言書に対する律法の諸書の対立であれ、福音の諸書相互の対立であれ、使徒の諸書相互の対立であれ――対立ではないことを証明し、それらの調和と平和とを示す人は、平和をもたらす第三の人になる[5]。実に、『伝道の書』によると、(聖書の)すべての書は、「諸々の賢者の言葉。それらは、突き棒のような、突き立った釘のようなものであり、諸々の集会の折に、一人の羊飼いから与えら得たもので、余分なものは何もない[6]」。諸々の言葉の一人の羊飼いとは、み言葉である。それらの言葉は、聞くための耳を持ち合わせていない人々にとっては[7]、不協和音の外観を持っているとしても、真実には和音を持っているのである。



[1] Mt.5,9.

[2] 『マタイによる福音注解』は、ギリシア語原文では断片が伝わるのみである。

[3] Pr.8,8-9.

[4] Ps.71,7.

[5] このような考えは、既にクレメンスにも見られる。Cf.Clemens Alex., Str.7 (16), 100, 5.

[6] Qo.12,11. 『コヘレトの言葉』のこの一節は、聖書の諸文書の調和と一貫性を主張するとき、聖書の諸文書はすべて唯一のみ言葉に由来するから、相互の矛盾は有り得ないという趣旨で、オリゲネスによってしばしば引用される。Cf.Com.Mt.XIV,1-4 et Hom.Ez.I,1.ちなみにこの一節が、「霊的なものを霊的なものと比較して」(1Co.2,13)解釈するというオリゲネスの聖書解釈の原則を支えていると言えよう。なぜなら一切の霊的な意味は、同一の源泉に解釈者を差し向けるからである。

[7] Cf.Lc.8,8.