実際、竪琴やキタラの様々の弦は、それらの一つひとつが固有の音を持っていて、他の弦の音とは似てないように思われる音を出しているので、音楽に不案内で、音楽的な和音の論理を知らない人にとっては、諸々の音の非類似のゆえに、不協和音と見なされてしまう。それと同じように、諸々の聖なる書き物における神の和音[1]を聞く術を持たない人たちは、旧約聖書が新約聖書と、預言者たちが律法と、諸福音書が互いに、使徒が福音書と、あるいはその使徒自身と、あるいは(他の)使徒たちと不協和であると考えるのである。しかし、神の音楽の手ほどきを受けた人[2]、「諸々の行いと言葉において[3]」知恵があり、それゆえダビデと呼ばれるかもしれない人――ダビデという名は、手において有能な人と解釈される――が来れば、その人は、神の音楽の音を奏でてくれるだろう。彼は、ある時は律法の諸弦を、ある時は律法の諸弦に協和して福音の諸弦を、またある時は預言者の諸弦を、また預言の諸弦と同じ調子の使徒の諸弦を、同様に福音の諸弦と同じ調子の使徒の諸弦を、適時に引くことを神の音楽から学んでいるのである。実に彼は、聖書全体が神の完全で調和の取れた一つの楽器――様々な音から、学ぶことを望む人たちに救いをもたらす一つの調べ、ダビデの音楽がサウルの内なる邪悪な霊を鎮め、彼の息を抑えたように[4]、邪悪な霊の一切の働きを鎮め、妨げる一つの調べを作り出す楽器――であることを知っている。このようなわけで、聖書に従って聖書全体の平和を見取り、その平和を、正しく探求する正真正銘の学識愛好者たちの内にもたらす人が、平和をもたらす第三の人であることを、貴殿はお分かりくださるでしょう。



[1] h` tou/ qeou/ evn tai/j i`erai/j grafai/j a`rmoni,aj

[2] o` pepaideume.noj th.n tou/ qeou/ mousikh,n

[3] Cf.Ac.7,22.

[4] 1S.16,23.