さらに『使徒言行録第四講話[1]』において。「聖霊がダビデの口を通してユダについて予め言った聖書の言葉は成就されねばならなかった[2]」。

 ユダに関する数々の事柄が書かれた詩篇の中で、ある人は、聖霊が語っているのではないと言うかもしれない。なぜならそれらの言葉は、明らかに救い主の言葉だからであると。救い主は次のように言っている。「神よ、あなたは私の賛美を無視ししないで下さい。なぜなら罪人の口と裏切り者の口が私に対して開いたからです[3]」云々。「そして彼の監督職は、他の者が引き受けるのがよい[4]」と。したがって、もしも救い主がこれらの言葉を語っている方であるとすれば、どうしてペトロは、「聖霊がダビデの口を通して予め言った聖書の言葉は成就されねばならなかった」と言うのでしょうか、と。私たちがこの箇所で学ぶことは、おそらく次のようなことではないでしょうか。聖霊が預言者たちの内で(他者に)語らせているのです[5]。そしてもしも聖霊が神に語らせているとすれば、語っているのは神ではありまえん。むしろ聖霊が、神の口を借りて語っているのです[6]。そして、もしも聖霊がキリストに語らせているとすれば、語っているのはキリストではありません。むしろ聖霊が、キリストの口を借りで語っているのです。ですから、同じように聖霊が預言者やあれこれの民、あるいはどのようなものにでも語らせているとすれば、すべてのものに語らせているのは聖霊なのです。



[1] この講話からの抜粋は、オリゲネスが行なったとされる使徒言行録に関する十七回の講話の内、その現存する唯一の断片である。

[2] Ac.1,16.

[3] Ps.108,1-2a.

[4] Ps.108,8.

[5] (他者に)語らせる」の原語は、proswpopoiei/ である。文字通りに訳せば、「登場人物を作る」という意味である。

[6] 文字通りに訳せば、「神の顔から語る」となる。