第8章

 文法的に間違っていて、言葉の上での一貫性[1]を保持していない聖書の諸々の言葉を訂正すべきでないことについて。それらは、理解できる人たちにとっては、意味の一貫性[2]を大いに保持している。『ホセア記注解』からの抜粋[3]

 聖書において文法的に間違った仕方で言われた数々の事柄が――表現に関する限りで――しばしば読者を当惑させ、それらの言葉は正しい仕方で一貫性をもって然るべく書き記されたものではないと憶測させている。その結果、ある人たちは、修正という口実の下に手を加え、一貫性をもたずに書き記されたと思われている数々の言葉に潜む意味[4]を大胆にも変えている[5]。目下の諸々の言葉に関して、表現に関する限りで似たようなことが生じているので、必然的にここでも、それら(の言葉)に潜む意味[6]を考察しなければならない。

 さて、(聖書は)複数形で次のように言っている。「彼らは嘆き悲しみ、私に嘆願した[7]」と。続く個所も再び複数形で、「オンの家で、彼らは私を見出した[8]」と述べている。しかし次の個所は、単数形でこう付け加えて言っている。「そしてそこで、(神は)彼に向かって話をされた[9]」と。剥き出しの表現にこだわる人は、(それらが)間違って書かれたと考え、まさに最後の個所を複数形で書くか、あるいは先行する(二つの)個所を単数形に換えるかもしれない。実際、「彼らは嘆き悲しみ、私に嘆願した」(という個所)と、「オンの家で、彼らは私を見出した」(という個所)を読む人は、続く個所は次のようになっていると言うかもしれない。「(神は)そこで、彼らに向かって話をされた」、すなわち、嘆き悲しみ嘆願し、オンの家で神を見出した人たちに向かって話をされた、と。しかし我々は、数々の似た言葉の精査によって、まさにこの個所が一貫性をもって言われていることを証明することにする[10]



[1] h` kata. to. r`hton avkolouqi,a

[2] to. th/j dianoi,aj avko,louqon

[3] この注解は、オリゲネスが作成したとされる25巻に及ぶ『十二小預言書注解』の現存する僅かな断片の一つで、カイサレイア時代に作成されたと考えられる。Cf.P.Nautin, Origene, p.382-383.

[4] o` evgkei,menoj peri. ta. dokou/nta avnakolou,qwj gegra,fqai r`hta. nou/j

[5] オリゲネスによって非難されている「ある人々」とは、聖書本分の写字生であろう。オリゲネスがギリシア語訳聖書の字句の改定に否定的なのは(cf.Com.Mt.15,14)、ヘブライ語原文との比較に立脚したものではない。なぜなら彼は、ヘブライ語本文を読むことはほとんどできなかった。彼が聖書の字句の改定に否定的だったのは、彼の解釈学上の前提による。それはすなわち、本文に漠然と述べられているが、聖書の文法的な間違いは、聖書に一貫して保持されている霊的な意味を開示するきっかけとして摂理的に許されているという確信である。

[6] o` evn auvtoi/j evgkei,menoj nou/j

[7] Os.12,5.

[8] Os.12,5.

[9] Os.12,5.

[10] VEk parathrh,sewj de. o`moi,wn r`htw/n kai. tou/to avkolou,qwj eivrh.sqai dei,xomen) 「数々の似た言葉の精査」によって字句の矛盾を超える一貫した高次の意味(霊的な意味)を見出すことができるというのが、オリゲネスの聖書解釈の原理である。