『創世記』の中で、神はアダムに掟を与えて、次のように言っている。「あなたは、楽園の中にある一切の木から食べ物を取って食べなさい。しかしあなた方は、善悪を知る木から取って食べてはならない。あなた方がそれからとって食べた日に、あなた方は死ぬだろう[1]」と。実際、ここでも(神は)、「あなたは、楽園の中にある一切の木から食べ物を取って食べなさい」と言う際に単数形で始めているのに、複数形で(これに)継ぎ足して、「しかしあなた方は、善悪を知る木から取って食べてはならない。あなた方がそれから取って食べた日に、あなた方は死ぬだろう」と言っている。実に、掟を守ることでアダムが命の内に留まることを神が望んだ場合には、その掟に関して、神は単数形で命じて、「あなたは、楽園の中にある一切の木から食べ物を取って食べなさい」と言っているのである。神に従って歩み、神の数々の掟に寄りすがる人たちは、たとえ大勢いても、同じ考えを抱いているがゆえに、多でありながら一なのである[2]。それゆえ、善に関する掟が与えられるときには、「あなたは食べ物を取って食べなさい」という言葉が単数形で彼に言われるのである。これに対して違反に関する命令を下す場合には、神は単数形ではなく、複数形で、「あなた方は、食べてはならない。あなた方が取って食べた日に、あなた方は死ぬだろう」と言っているのである[3]



[1] Gn.2,16-17.

[2] oi` polloi. e[n eivsi; 「多即一なのである」と哲学的に訳せば、京都学派も色めくか。

[3] Cf.Hom.Ez.IX,1:「罪が増えると、・・・(中略)・・・罪人は一人ではなくなります。彼は、一人でありながら多となります。逆に、罪の始めには、これらすべての多があるわけではありません。・・・(中略)・・・罪があるところに多があります。それは、分裂や異端や不和があるところに多があるのと同様です。Hom.1R.I,4:「私たちがまだ罪人であるなら、私たちは、(一人という)この称号を受け取ることができません。なぜなら私たちはそれぞれ、一人ではなくて、多だからです。・・・(中略)・・・正しい人たちに関しては、彼らの一人ひとりが一人と言われるばかりでなく、彼らの全体がひとまとめに一人と言われます」。