したがってここでも、彼らがいまだに嘆き悲しみ、神に嘆願するときには、複数形で、「彼らは嘆き悲しみ、私に嘆願した[1]」と言われている。しかし、彼らが神を見出すときには、(聖書は)もはや、「(神は)そこで、彼らに向かって話をされた」とは言わず、「彼に向かって(話をされた)[2]」と言うのである。多くの人たちは、神を見出し神の言葉を聞くことによって一つとなった。一人であった者は、罪を犯すと、多くのものの中の一つとなる。なぜなら彼は、神から分離して、一性から堕ちてしまったからである。これに対して多くの人たちは、諸々の掟、神の諸々の掟に従うことによって一人である。それは、使徒も証している通りである。彼は次のように言っている。「なぜなら私たちは多くあっても、一つのパン、一つの体だからです[3]」。また、「一人の神、一人のキリスト、一つの信仰、一つの洗礼[4]」。別の箇所では、「私たちは皆、キリスト・イエスにおいて一つですから[5]」。さらに、「実際、私は、あなた方すべてを、しみのない乙女として、一人の夫、主に差し出してめあわせることにしました[6]」とある。また、主に喜ばれる人たちが一つであることを、救い主がご自分の弟子たちについて父に捧げた祈りからも見て取ることができる。実際、彼は言っている。「聖なる父よ、私とあなたが一つであるように、彼らも私たちの内にあって一つとなるようしてください[7]」と。また、聖なる人たちが互いの肢体であると言われるとき、それは、彼らが「一つの体である[8]」こと以外の何だろうか。『牧者』の中でも、塔の建物が、多くの石によって建設されているにもかかわらず、一つの石から建てられたように見えるとされる[9]。それによって聖書は、多くのものからなる調和と一致[10]以外の何を指そうとするのか[11]



[1] Os.12,5.

[2] Os.12,5.

[3] 1Co.10,17.このような考えは、聖書的な伝承に属していると言える。Cf.Juges,20,1; 20,8, 20,11.

[4] Cf.Ep.4,5-6.

[5] Cf.Rm.12,5; Ga.3,28.

[6] 2Co.11,2.

[7] Cf.Jn.17,11 et 21.

[8] Rm.12,5; cf.Ep.4,25.

[9] Vis.III,2,6.

[10] h` evk pollw/n sumfwni,a kai. e`no,thj

[11] 神の掟に従う人たちは一つであるが、神に背く人たちは多であるという考えは、ギリシアの古代哲学でも既に知られている。Cf.Platon,Res.4,445C; Phaedr.238A; Aristoteles, Ethic.Nico.2,6,1106B, 28-33; Plotinos, Enneades,9,3-4.