第9章

 聖書が同じ名詞をしばしば、しかも同じ個所で、異なった意味で用いたことの理由は何か。「では、どうでしょうか。律法は罪なのですか[1]」に関する『ローマの信徒への手紙注解』弟9巻からの抜粋[2]

 律法という名詞が一つであるのと同じように、聖書のあらゆる個所に見られる律法に関する言葉が一つであるというわけではない。それゆえ聖書の一つひとつの個所を注意深く当たって、一方で律法という言葉から何が指示されるか、他方でそのような(指示された)事柄をどのように理解すべきか考察しなければならない。しかしこのことは、他の多くの個所についても言える。なぜなら他の諸々の個所においても、聖書の諸々の言葉は、同名異義だからである。それらの同名異義語は、名詞が一つであるように、指示されている事柄が――それが名指されているときはいつでも――一つであると思い込んでいる人たちを混乱させている。ところで律法という言葉は、同じ事柄にではなく、多くの事柄に差し向けられているが、多くの個所は、解決を要する難しさを抱えていて論証を必要とする。そこで、我々はそれらの個所は脇に置いて、律法という言葉が多くの事柄を指し示すがゆえに、どんな人をも当惑させ得る個所(だけ)をすべて挙げてみたい。たとえば『ガラテアの信徒たちへの手紙』の中で、「律法の諸々の業に属する人は、呪いの下にあります。なぜなら律法の巻物の中に書き記されたすべての事柄を――それらを行うために――守らない人は皆、呪われる[3]」と言われている。その場合、文字通りモーセの律法が、すなわちそれに従う者たちが行うべき諸事項と行うべきでない諸事項を定めたものが、示されているのは明らかである。同じことが、同じ書簡の中の個所でも示されている。すなわち「実に律法は、諸々の違反のために定められました。しかしそれは約束された子孫が来るまでです。それは、み使いたちを通して、仲介者の手において公布されました[4]」。また次の個所でも。すなわち「したがって律法は、キリストへと導く私たちの養育者となりました。それは私たちが信仰によって義とされるためです。しかし信仰が来たからには、私たちはもはや養育者の下にはいません。なぜならあなた方は、キリスト・イエスへの信仰によって神の子どもらとなっているからです[5]」。しかしモーセの許で書き記された物語も、律法という言葉によって指示されている。それは同じ書簡によると次の個所から了解することができる。すなわち「さあ、私に言ってください。律法の下にいたいと願うあなた方は、律法の言うことを聞かないのですか。実際、こう書かれています。アブラハムには二人の息子がいました。一人は女奴隷の子であり、一人は自由な女からの子であると。しかし女奴隷の子は肉によって生まれました。しかし自由な女からの子は約束によって生まれたのです[6]」。



[1] Rm.7,7.

[2] 『ローマの信徒への手紙注解』は、ルフィヌスによるラテン語の抄訳を除いて、僅かなギリシア語断片でしか伝えられていない。

[3] Ga.3,10(Dt.27,26).

[4] Ga.3,19.

[5] Ga.3,24-26.

[6] Ga.4,21-23.