私は、詩篇が律法と命名されているのを知っている。それは次の言葉から明らかである。すなわち、「彼らは私を理由なしに憎んだという、彼らの律法の中に書き記された言葉が成就するためである[1]」とある。さらにイザヤの預言も、使徒の許で律法を言われている。使徒は次のように言う。「律法にはこう書かれています。『私は、数々の異なる舌で、数々の異なる唇で、この民に語ろう。しかしそれでも彼らは私に聞き従わないだろう』と主は言われる[2]」。私はこの表現と等価の言葉がアキュラの訳の中にあるのを見出している[3]。律法の神秘的で神的な解釈[4]も律法と言われる。「なぜなら私たちは、霊的な律法があることを知っているからです[5]」とある。しかしこれらすべての箇所の他に、一般常識によれば魂の中に蒔かれている理性、聖書が命名するところによれば心の中に書き込まれた理性[6]――行なうべき諸事項と行なうべきではない諸事項を定めた理性――が律法と言われている。このことも、次の言葉の中に明示されている。「律法を持たない諸国の民が自然本性的に律法に定められた諸事項を行なうとき、彼らは、律法を持たないにもかかわらず、彼ら自身において律法となっています。彼らは、彼らの諸々の心の中に書き記された律法の業を示しているのです。彼らの良心もそのことを証しています[7]」。実際、諸々の心の中に書き記された理性――これは、自然本性的に律法に定められた諸事項を行なう諸民族にさえある――は、一般常識によれば我々の主導的能力の中に書き込まれていて、日毎に成就し顕在化していく理性に他ならない。これが、「律法がなければ罪は数えられない[8]」という言葉においても、「律法によらなければ私は罪を知らない[9]」という言葉においても、律法(という言葉)によって示された意味である。実際、モーセによる律法以前にも、カインに対しても、大洪水を被った人たちに対しても、さらにはソドムの人たちや他の無数に人たちに対しても、罪は数えられていた。多くの人たちが、まさにモーセの律法以前に、罪を知っていたのである。

 またあなたは、同じ箇所で律法という一つの名称から二つの意味が読み取られても、驚くべきではありません。実際、我々は、このような慣行を他の諸書の中にも見出すだろう。たとえば、「あなた方は、収穫が来るまであと四ヵ月あると言ってはならない。あなた方は、あなた方の両目を上げて、諸々の畑を眺めなさい。それらは既に収穫を迎えて白く輝いている[10]」とある。収穫(という言葉)が二度挙げられている。それは、前者では身体的な収穫に差し向けられ、後者では霊的な収穫に差し向けられている。同様のことを、生まれつきの盲人が後に癒される人に関しても、あなたは見出すでしょう。すなわち、身体的に起こった出来事に次の言葉が続くのである。「私は裁きのために、この世に来た。それで、見えない人たちが見るようになり、見える人たちが盲人となるのだ[11]」。



[1] Jn.15,25(Ps.34,19).

[2] 1Co.14,21(Is.28,11-12).

[3] ヘブライ語をよく知らなかったオリゲネスは、他の諸訳を参照することによって、本文に引用された『七十人訳ギリシア語聖書』の正当性を証明しようとしたのである。

[4] h` mustikwte,ra kai. qeiote,ra tou/ no,mou evkdoch,)

[5] Rm.7,14.

[6] Cf.Rm.2,15.

[7] Rm.2,14-15.

[8] Rm.5,13.

[9] Rm.7,7.

[10] Jn.4,35.

[11] Jn.9,39.