したがって今の場合にも、自然本性の律法がなくても、神の義は明示されており、しかもモーセの律法と預言者たちによって証されている[1]。しかし我々は、律法の二重の意味を受け入れることを未だにためらっている人たちに対して次のように言いたい。同じ律法が、「今や律法がなくても神の義は明示されている[2]」という言葉と、「それは律法と預言者たちによって証されている[3]」という言葉で受け取られている。そうであれば、もしも(神の義が)律法なしに明示されているなら、それが律法によって証されることはない。ところがもしもそれが律法によって証されているなら、律法なしに明示されることはない。したがってイエス・キリストによって明示された神の義を、自然の律法本性の律法は決して証しない。なぜなら自然本性の律法は神の義に劣るからである。むしろモーセの律法が、しかし文字ではなく霊[4]が、律法の霊にかなった預言者たちが、そして彼らの内にある霊的な理性(ロゴス)が、それを証するのである。それゆえ、聖書を読む人は、次のことを入念に顧慮しなければならない。すなわち、(聖書の)諸書が必ずしも常に、同じ表現を同じ事柄を指示するものとして使っているわけではない。そして、ある時は同名異義語[5]の下で、ある時は予型的表現[6]の下で、また時には、特定の諸個所において、他の諸個所における場合とは異なる意味で表現を使うことを要求する文脈[7]の下で、(聖書の諸書は)そのことを行っているのである。もしも我々がこのことを入念に顧慮するなら、我々は多くの躓きと誤解を免れるだろう。

それゆえ、「彼は見た」という言葉が常に同じ事柄を指示するものとして使われているのではないことを知らなければならない。むしろそれは、ある時には身体的に見るという意味で、またある時には理解する[8]という意味で使われいることを知らなければならない。

一般に次のことを知っておかなければならない。すなわち、預言者たちにおける霊と使徒たちにおけるキリストの言葉とには、真理に関する諸観念[9]を隠して明瞭に表明しないという課題があった。したがってそれらの観念は、多くの個所で、まさに表現方法によって混乱させられていて、いわば一筋の一貫性の下に語られることもない[10]。それは、相応しくない者たちまでもが、彼らに対して有益に隠された諸々の事柄を、彼ら自身の魂の裁きのために[11]、見出すことがないようにするためである。そしてこのことが、多くの個所で、聖書全体が整然とした構成[12]も一貫性[13]も持っていないように見える要因なのである。特に、先ほど我々が述べたように預言書と使徒の書が、また使徒の書の中でも特に、『ローマの人たちへの手紙』が整然とした構成も一貫性も持っていないように見える。この『ローマの人たちへの手紙』の中では、律法に関する数々の事柄が様々な意味で名指されていて、様々な事柄を指示するものとなっている。そのため、パウロはこの手紙の書の中で自分にあらかじめ課した目標を守っていないという印象を与えることになった。



[1] Cf.Rm.3,21.

[2] Rm.3,21.

[3] Rm.3,21.

[4] 2Co.3,6; cf.Rm.2,29.

[5] o`mwnumi,a)

[6] tropologi,a)

[7] su,mfrasij)

[8] noei/n)

[9] ta. noh,mata th/j avlhqei,aj)

[10] ouvc w`j u`po. mi,an le,getai avkolouqi,an)

[11] Cf.Jn.9,39.

[12] su,ntaxij)

[13] avkolouqi,a)