オリゲネスのフィロカリア

 

序文[1]

 

 本巻は、オリゲネスの様々な労作から集められた聖書に関する数々の探求と説明の抜粋を収めている。幾人かの人たちの言うところによれば、本巻ならびに本巻の章分けと配列、さらに各章の表題は、神的な事柄に関する英知を持ったバシレイオスとグレゴリオスの手になる。またこの両者の内、神学者グレゴリオスによって、当時テュアナの監督をしていた敬虔な記憶を残すテオドロスに、本巻の見本が贈られたとされる。それらのことこそ、我々が筆写する際の原本となったこのきわめて古い本巻の序文が明らかにしようとするものである。では人々は、何に基づいてそれらのことを主張するのだろうか。明らかにそれは、同じ神的な人物が、(本巻の)見本とともに、いま言及されたテオドロスに宛てて書き送った書簡によってである。したがって我々は、この書簡が明らかに、神学者という異名を持つ人物の手になることを知っている。しかし我々は、この選集で言及された(オリゲネスの)多くの作品が、諸々の正しい教えと異なっていることを我々は見出している。それゆえ我々は、真理の教えに従いながら、本巻にこの序文を付して、本書の読者の人たちには気づかれないオリゲネスの擁護者たちの害悪をそれと分かるようにするのがよいだろう。

 上記の書簡がその神学者によって書かれたことを我々は疑わない。というのは何よりもその書簡が、彼の他のすべての書簡群と同じ文体で伝えられているからであり、この書簡に何人も異議を唱えないからである。我々は、そのことに同意したのであれば、別のこと、すなわちオリゲネスの有益な言葉の選集が(二人の)賢明な指導者たちの手になるものであることも必然的に受け入れねばならない。この(選び抜かれた)オリゲネスの言葉が有益なものであることについては、すでに言及した神学者の書簡も同じ見解をはっきりと示している。実に霊の蜜蜂である彼らが、様々の花から、一つの混じりけのない蜂の巣を満たすために最上のものを集めるのは当然であろう。箴言の著者である賢明なソロモンによれば、諸国王と諸国民は、その蜜を味わい、甘みを感じ、すべての健康に必要なものを得る[2]。そのようなわけで、神的な威厳を備えたそれらの教父たちは、異端の苦味をまったく含まない言葉を集めたと、我々は確信している。彼らは、神的な霊感を受けた自分たちの教えにまったく調和せず、それに無縁なものとして非難される言葉を、以下に挙げる諸章の何れかに乱雑に導き入れることは決したなかった。

 そもそも信仰の不屈の闘士であったバシレイオスとグレゴリオスが、神の子や聖霊は被造物であるという冒瀆に我慢しただろうか。どうして我々は、彼らがそのような教えを学識愛好者たちに有益なものとして蓄えたと言うことができるだろうか。彼らのすべての闘いは、アレイオスとエウノミオス、そして彼らに類する人たちの中傷に向けられたのではなかったか。彼らは、(霊魂)先在説や(万物)復興説、およびギリシア人たちに相応しい同類の神話じみた教えの数々を告発したのではなかったか[3]。しかしどうして我々は、多くを語る必要があろうか。彼らが正当信仰[4]のために費やした労苦の数々をことごとく語るには、時間が足りない。彼らの全生涯は、至聖にして(万物の)根源たる三位が等しく尊ばれ、同じ栄光を持つこと、そしてこの同じ真理に即して、等しく永遠であり同一の実体を持つことを証明するのにほとんど費やされたのであった。彼らは、敬虔な諸々の教えという命を与える草によってキリストの羊たちを養い、それらの教えのために日常的な言葉を使った。そしてその言葉は、真理からいささかも外れることがなかった。しかしながらここには[5]、これとまったく反対のことを見出すことができる。実際、我々が数え上げたすべての馬鹿げた事柄や、さらに他の馬鹿げた事柄が、本巻の幾つかの箇所に撒かれている。本巻の一つの章においても――我々は第二十二章のことを言っている――その表題からして、疑わしくて不純な内容が指し示されている。したがってもしも我々が、それらの教父たちが、それらすべての事柄を選集に抜粋したのだと認めるとすれば、我々は、正統でない事柄を正統なものとして同意したことになろう。また我々が、正しさの審判者たちを我々の変節の責任者として告発することがどれほど馬鹿げたことか、(あなたは)お考えいただきたい。我々は決してそうしてはならない。そもそも、たとえ凡庸であっても、諸々の言葉を選り分けることのできる人たちの誰が、彼ら敬神の闘士たちが、みずから編纂した選集の中に、麦と共に籾殻を納めた[6]のを容認することができようか。しかし我々は、異端者たちの許にある何がしかは麦であるということに同意する。なぜならこの上なく賢いキュリロスによれば、「異端者たちが言うことをすべて避けたり、遠ざけたりしてはならない。なぜなら彼らは、私たちも告白している事柄の多くを告白しているからである[7]」。もちろんバシレイオスとグレゴリオスは、私たちに対して、麦と共に籾殻をも集めたわけではなかった。どうしてそんなことができようか。しかし主の諸々の道を曲げる人たちの幾人かは[8]、オリゲネスのギリシア的な不敬虔を様々な仕方で我が物にし、彼らの指導者(すなわちオリゲネス)を躓かせた悪魔を真似て、かつて悪魔が主人の畑に毒麦を混ぜたように[9]、私たちの麦に今度は籾殻を混入したのである。実に麦は、我々のものである。そして諸々の正統な教えは、それらが見出されるところならどこにおいても、我々のものである。それらの教えの霊感を受けた伝令者たちは、みずからのきわめて賢明な教えを通して、そして上から与えられた選り分ける力を持つふるいによって、籾殻から麦を選り分けて、一方を教会というみごとな倉に納め、他方を――たとえオリゲネスが望まなくても[10]――燃え尽きない火に渡したのである[11]

 したがって以上の理由によって、我々は、この(グレゴリオスの)書簡が真作であることを確証し、この選集が聖なる(二人の)人物たちの手になるものであることを疑わず、太陽よりも燦然と輝く彼らの正統性に注意を向けながら、その他の事柄をみずから考えるのがよいと言いたい。その他の事柄とは次のことである。すなわち、すでに述べたように、オリゲネスの悪しき見解に冒されている幾人かの人たちは、聖なるグレゴリオスの手間を口実にして、この選集を諸々の不敬な付加物によって汚してしまった。その結果、より単純な読者たちは、神的なバシレイオスがどこかで言っていたように、蜂蜜とともに諸々の害悪まで受け入れてしまう恐れがあった。そこで、このようなことが起こらないように、我々は、あらかじめ読者の方々に、以上のことを明らかにしようと努めた。そして我々は、以下の諸章の集成と提示に、できる限り細心の注意を払い、それらを可能な限り吟味して、数々の違法な紛い物に対して「異端的なもの」、「非難されるべきもの」という指標を付した。我々はそれらの指標によって、以上の紛い物を異端的なもの、非難されるべきものとして、然るべき場所に掲示した[12]



[1] フィロカリアの序文には、ここに訳した長い序文と、短い序文とがあり、それぞれ別系統の写本群に属している。短い序文の和訳は次のとおり。「本巻は、神学の教師バシレイオスとグレゴリオスによって、オリゲネスの労苦に帰される様々の作品から抜粋された聖書に関する探究と解説を収めている。彼らの一人である神学者グレゴリオスは、当時テュアナの監督をしていたテオドロスにその写本を贈ったと言われている。それは、彼に宛てられた次の書簡が示しているとおりである」。

[2] Cf.Pr.6,8(LXX).

[3] muqiko.j kai. }Hllhsin pre,ponta o` peri. proura,rxewj kai. avpokatasta,sewj kai. tw/n o`moi,wn dogma,twn)

[4] h` ovrqodo,xoj pi,stij)

[5] オリゲネスの諸作品のことである。

[6] Cf.Mt.3,12.

[7] Cyrillus Alexandrinus, Ep.44(PG 77, 224).

[8] Cf.Ac.13,10(Pr.10,9).

[9] Cf.Mt.13,24s.

[10] 罪人を永遠の滅びに定める「燃え尽きない火」をオリゲネスが積極的に認めていたかどうかは、非常に微妙な問題である。しかしオリゲネスは、神の残酷さを非難するグノーシス主義や異教との対決の中で、神の善性を極限まで肯定しなければならなかった。それゆえ彼の救済論によれば、「永劫の火」は、矯正的警告的な意味しか持たない。

[11] Cf.Mt.3,12; Lc.3,17; Mc.9,43.

[12] 「然るべき場所」とは、本文中の然るべき場所ではなく、本文の外のこの「序文」のことを意味する。

 

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