第1章 宗教学と宗教

 

1 宗教という言葉

現代人である我々にとって、宗教とは一体どんな意味を持つのだろうか

2 宗教の栄枯盛衰

過去2千年の人類史を振り返ると、隆盛を極めた巨大宗教が消滅し、一つの「宗派」に過ぎなかった小集団が、世界中に影響を及ぼす宗教に成長した。

ローマ帝国内では1世紀後半から4世紀中ごろまでミトラ教というものが流行したが、キリスト教がこれに代わった。このキリスト教もやはり、ユダヤ教から分かれた小さな集団でしかなかった。そしてユダヤ教は、あらゆる迫害・攻撃にもかかわらず、今日にも生き残っている。古代エジプトの神々は、イスラム教によって駆逐された。

3 本講義の目的

本講義では、長い歴史を持つ宗教の活動を文化現象として捉え、世界の代表的な宗教の発生の歴史(開祖・教義)を簡単に解説し、今日における宗教の意味を皆さんと共に考察していきたい。

しかし本講義では、時間の制約上、原始社会一般に広く見られる宗教(精霊崇拝・アニミズム)から話を始め、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、日本の神道を順次取り上げる。

アニミズム(animism)という言葉は、ラテンanima(魂・霊魂)に由来し、自然界のあらゆる事物に、霊魂があると信ずる考え方で、万物有魂論とも訳される。

世界の諸宗教の根底には、原始社会のアニミズムがある

4 比較宗教学の使命――単なる人間の営み・文化現象としての宗教

本講義を始めるに当たって、先ず、比較宗教学とは何なのか、そしてそもそも宗教とは何なのかを定義しておくことにしよう。

 本講義における比較宗教学は、研究者自身が信じる宗教がどういうものであるかを、他の宗教との比較の中で明らかにし、読者にもその信仰を勧めるといった類の布教を目的とした研究ではない。本講義が採用する比較宗教学は、世界の諸宗教を単なる文化現象単なる事実として捉え、その成立と特質・特徴を他宗教との比較の下に明らかにしようとする客観的記述的な研究である。したがって本講義が解説する比較宗教学は、世界の諸宗教をありのままに、分かりやすく記述(写生)し、その長所(利点)短所(問題点)を指摘することだけを目的としている。

ところで文化現象としての宗教という場合の文化現象とは、厳密には、どのようなものだろうか。

文化現象は、人間の営みである。しかし人間の営みであれば、どのような営みも文化現象であるということはできない。例えば個人の一時的な気まぐれが文化だとは到底言うことはできない

文化現象とは、社会の中の人々によって、

 ・ 「伝えられたもの」・・・伝承(伝統) 

 ・ 「学びとられたもの」

 ・ 「共有されているもの」

という特徴を持っている。

本講義で研究対象とする宗教現象は、このような三つの性格を持った文化現象である。

5 宗教の定義

 では、宗教とは、そもそも、いったい何であろうか。それは、単に「神の存在と、神の教えを信じ、その教えに生きる」ことなのか。宗教とは何なのかを、世界のいわゆる諸宗教すべてにあてはまるような形で、定めることはできない。宗教という言葉の意味が文化によって異なっている

宗教という言葉の定義には、次の三つの類型がある:

1. 第1の類型の定義は、「宗教とは、神と人との関係である」というもので、神の観念を中心として、宗教を規定しようとする。しかし、宗教の中には、神をたてないものがある。たとえば仏教は、神を前提にしない。仏教の開祖である仏陀や仏様なるものは、基本的に神ではない。したがってこの定義は仏教に当てはまらない。

2. 第2の類型の定義は、神々しさ清浄感神聖感畏敬の念などといった宗教体験に伴って現われてくる感情で宗教を定義しようとする。ドイツの宗教学者ルドルフ・オットーは、ヌミノーゼ(Numinose)が有名である。しかしこのような情緒的経験は、人間の宗教的な営みの結果としてあらわれる副産物的であって、宗教そのものが何であるか(本質)を明らかにするものとは言えない。それは、宗教の特徴の一つを言ったに過ぎず、宗教の定義としては不十分。

3. 第3の類型の定義は、人間の生活活動の中で、宗教が果たす役割に注目して、宗教を定義しようとするものである。それは、言い換えれば、宗教者個人の内面の感情は度外視して、外側に現われた働きだけ(行事・活動・美術など)に着目して宗教を定義する。難しく言えば、第三者からみて客観的に観測可能な事例に基づいて、宗教とは何かを探求する。

本講義では、世界の諸宗教を文化現象として捉え、客観的に記述し比較することであるから、この第3の類型の定義が本講義に適している。本講義では、この第3の類型の定義に即して、宗教が人間生活の中で、どのような働きをしているか、どのような役割りを果たしているか、そういう角度から、世界の諸宗教を観察する。

しかし、この第3の類型の定義とは、そもそも何か。それは以下の通り:

宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題に究極的な解決を与えることができると、人々によって信じられている人間の営み(文化現象)ある

ここに述べた宗教の定義に見られる「人間生活の究極的な意味」とは、私はなぜココにいるのか、何のために生きているのかという問題に答える人生の意味や目的をさす。そして、「人間の問題」とは、生老病死や離別、苦悩などの人が生きる上で遭遇するあらゆる諸問題をさす。もちろんこれらの問題は、宗教以外の学問によっても解決することができるだろう。しかしこれらの問題は、自然科学やその他の学問(哲学)によっては十分に答えられない

以下では、この定義の内、下線を引いた部分の語句の説明を通して、比較宗教学の見地から見た宗教とは何かを考えていきたい。

6 人間の問題

(1) では、なぜ人間は、自分自身を問題にするのか。

そもそも人間行動の原動力となっているものは「欲求」である。人間を行動に駆り立てる欲求には、「もっとそれを続けていたい」、「もっと繰返したい」というブラスの方向(プラスの価値志向性)と、「もうやめたい」「もう繰返したくない」というマイナスの方向(マイナスの価値志向性)がある。

人間の欲求は、常に、このプラスとマイナスの価値志向性の交錯の上に成り立っている

さらに欲求には、基本的欲求と、文化的欲求社会的欲求がある。

1.   基本的欲求というのは、直接に、人間の生理的条件と結びついた欲求である。

2.   文化的欲求というのは、生活習慣が染み付いて(内面化して)、自分自身の欲求(個人的欲求)となったものである。正月になると、食物の中でも、とくに、餅がたべたくなる。これは、基本的欲求にくらべれば、第二次的欲求(derived need)である。しかし人間を行動に駆りたてる力は、基本的欲求に劣らず強力な湯合が多い。

3.    社会的欲求というのは、個人を離れて社会全体が共通して持つ欲求で、「しなければならない」とか、「〜してはならない」という義務意識を伴っている。具体的には、礼儀作法や日常的な道徳事項の順守の欲求が相当する。それは、社会的・倫理的な価値(禁止事項)、その社会を構成する諸個人の心の中に内面化され、根付いた結果である。社会的欲求も、人間を行動に駆り立てる強力な力であろう。

(2) 欲求不満と宗教の約束

欲求が充足されて、解消すれば、心の緊張はなくなり、逆に満たされなければ欲求不満となる欲求が常に満たされていれば、人間の問題は生じない。しかし人と環境との、順応関係や調整作用がうまくゆかなくなると、人間は欲求不満となり、心の中に緊張状態が生じる。そこに、人間の問題が起って来る。

欲求は、「未来志向性(future-orientation)をもっている。将来における欲求の充足を志向している。しかしその期待が望めない場合に、心は、過度の緊張状態に陥る。これは、不安の状態である。欲求が充足する見通しが立たず、更に不安が募ると、心は、葛藤状態に陥る。ここに、解決を必要とする人間の問題が現われてくる。

宗教は、通常の手段では解決不可能は欲求不満に最終的な解決を与え、明るい将来の希望を与えると約束するのである。

7 人間生活の究極的な意味

宗教は、人間の問題に最終的な解答を与える。もちろん、人間の問題の解決をはかるものは、宗教だけではない。人間のすべての努力は、人間の問題の解決を目指している。宗教は、そうした人間の努力の、一つの形態であるにすぎない。そうであれば、文化現象(人間の文化的営み)の中で、どのような特徴をもったものが、特に宗教と呼ばれるのか。

科学や技術などの諸手段には限界があり、決定的、最終的な解決を約束するものではないしかし我々人間は、つねに、あらゆる場合に適用できるような解決の方法をもとめてやまない。そこで、社会には、そうした人間の無限の要求に応えるような文化的産物(人間の営み)が、つくり出される。それが宗教という文化現象(人間の営み)である。

人間の無限の欲求に根差した問題に、宗教が「最終的・決定的に」与える解答が、「人間生活の究極的な意味」である。ところで「人間の無限の欲求に根差した問題」とは、人間は死後、どうなるのか。苦しみとは、結局、何なのか。どのようにして苦しみは解消され、安心立命の境地に着けるかなどの、既存の科学では解決が見込めなそうにない諸問題である。

8 人間の問題の究極的な解決

宗教は、人間の問題を「決定的・最終的に」解決するということを、もう少し詳しく説明すると、どんな種類の人間の問題も、どんな困難な問題も、必ず、解決すると宗教は約束する

究極的というのは、無限優位ということでもある。宗教が持つ問題処理能力は、課題の難しさの如何にかかわらず、いつも、それより優位にある。

したがって、宗教の働きの究極的という性格は、次のような、簡単な不等式で現わすことができる。問題の難かしさをαとする。宗教の問題処理能力をxとする。そうすると、そのαxとの間には、次のような関係が、常に、成立する。

x > α

歴史的な諸宗教体系を観察すると、どれも、このような構造をもっている。

9 信じられている

宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題に究極的な解決をもたらす人間の営み(=文化現象)である。このことは、具体的には「宗教団体」や「宗教集団」などの「宗教体[2]」の中に現われる。

宗教体は、それぞれの独自の教えと理想を掲げて、人間の問題を解決する具体的な処理方法を提案する。その宗教を信奉する人々は、そうした方法の有効性を「信じている」。その方法によって、人間の問題が解決されると「確信している」からこそ、その宗教体の参加する。

もちろん、その宗教体が提供している問題の解決策を、信徒が「確信している」ということと、その解決策が、実際に効果的であるかどうかということとは、別の問題である。とはいえ宗教は、その問題解決能力の効果性が確信されることで、成立する。宗教体が提示する問題解決策は、その解決が効果が現実的であるから信じるというより、信じるからこそ効果があるという場合が多い。

したがって問題を解決することができると信じる信仰こそ、宗教を他の文化現象から区別する特徴であると言うことができる。その意味で、宗教は、当事者によって「信じられている文化現象」である

 以下では、世界の主な諸宗教を、人間によってその有効性を信じられた文化現象と見なして――つまり他の多くの文化現象の中の一つと見なして――、それらの諸宗教の開祖、教義を客観的に記述(写生)し、それらの諸宗教を比較しつつ、現代社会における宗教の可能性と役割を考察することにする。

10 宗教の可能性

ところで、講義を見通しよくするために、あるいはもっと面白いものにするために、宗教そのものに対して皆さんに問題意識を持ってもらうことにする。それは科学万能と言われる現代にあって、宗教に将来はあるのかという問題である。

宗教の将来について、そのもっとも根本的な問題は、宗教は今後どうなるのかという問題である。宗教は、時代が進むにつれて、ますますその説得力を失っているように見える。原始社会においては、高度の文明化された今日よりも、宗教の受け持つ役割りは、はるかに大きかった。人間に生じるすべての問題は宗教によって処理された。人間生活のすべてが宗教と結びついていたと言ってよい。

ところが、科学が発達するにつれて、宗教が処理していた人間の問題が、徐々に他の文化的形態――医学や心理学などの科学技術――によって解決されるようになった。また、本来、宗教活動の一部であった慈善事業や教育事業の多くも、今日では、国家や各種の非宗教的な民間団体(NGO)が代行するようになった。かつては超自然的な奇蹟に頼るしかなかった自然災害や病気との闘いも、近代科学によって大幅に解決されつつある。宗教の果たすべき役割は、やがて、他の諸科学に取って代わられ、宗教はもはや無益になる時代が来るのだろうか。

しかし、この問題を考える場合に、忘れてはならないことは、宗教とは何かという前提である。本講義では、「宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題に究極的な解決を与えることができると、人々によって信じられている人間の営み(文化現象)ある」と定義した。

この定義に立つと、宗教は将来なくなるかどうかという問題は、将来、宗教が人間生活の究極的な意味を与えることができるか、人間の問題に究極的な解決を与えることができるかという問題に換言される。したがって宗教が必要とされなくなる場合は、次の二つである。

1.          宗教以外の諸科学の発達によって、人間の側に問題がなくなってしまう場合(人間生活の中に、究極的な解決を必要とする人間の問題がなくなってしまう場合)

2.          宗教が約束する究極的な解決方法が、すべて、意味のない、無力のものと断定されるに至った場合(社会が、宗教のきに対して、全面的に失望した場合)

第一の場合に、すなわち、人間の問題がなくなる時があるかどうかという問題について考えてみる。それを考えるには、本講義で、人間の問題を、心理学的にどのように分析したかを思い起こしてみよう。人間の問題は、様々な理由によって引き起こされる。しかしそれは、結局、満たされざる欲求という形に還元される。人間の欲求が満たされず、それの将来の充足の見通しも悪いとき、人間の心に緊張状態・葛藤状態が起る。それが、人間の問題である。

人間の欲求は、いくらでも、自由に、無制限に、起りうる性格を持っている。したがっていかに、科学や技術が進歩しても、無限に広がる人間の欲求を充足することはできない。人間が生存する限り、人間の問題がなくなる理想世界というものは、あり得ない。したがって、人間の問題の究極的な解決を目的とするという点では、宗教の役割りは、いつまでも失われない

第二の場合、すなわち、宗教的方法が、すべて、無効と判断されるような時代が来るかどうかという問題について見てみよう。超自然的な力(奇跡)が、自然現象の中で働くという考え方は、今後、ますます説得力を失くすだろう。合理的な科学精神を基礎とした近代思想は、これに対して、真正面から挑戦しているのである。

しかし超自然的な力、奇跡を持ち出して人間の問題の解決を約束することだけが宗教の働きではない人間の問題の解決のために宗教が提示する方法は、奇跡以外にもあるそれは、人間の心の中に「新しい価値観」、「新しい見方」を与えて、人間の問題を克服する方法である。人間の苦しみや悩みは、その新しい価値観、新しい展望の中で再解釈され受け入れられ、人間は再び勇気と希望を持って生きていくのである。

このような考え方に基づく宗教には、近代科学と衝突しなければならない要素は、ほとんど何もない。このような宗教では、人間の問題を解決することが問題なのではない。人間に生きる希望・新しい価値観を与えることで、問題を克復することが問題となる。たとえ奇蹟中心の宗教は消減しても、このような宗教は、人間が、人間の問題を抱いて生活する限り、いつの時代でも、その意味を失わないだろう

以上、将来の社会において、宗教の運命が、どうなるかという問題を考えた。人間の問題が、時代とともに変るにつれて、宗教の働き方の形態も変わる。しかし、宗教そのものは、そう簡単に、社会から消減するものとは思われない。人間の問題が残る限り、その役割りにふさわしい働きをする宗教は、将来も存続する

このように考察してくると、今日存在する既成の宗教体の中には、時代の要求、人々の要求に応えることができず、消滅してゆくものもあろう。しかし、人々の要求にうまく応えながら、存続してゆくものもあるにちがいない。人間の問題に本当に取り組んでゆくことができる力をもった宗教だけが、時代を超えて、存続し、その役割りを果たしてゆくだろう。人間にとって、尊重に値するのは、宗教団体の組織力・財力・規模や名声・権威ではない。それがもたらす問題克復能力である人間の心に光りを与え、人間生活に生き 甲斐をもたらすその働きである

次の章では、古代社会に一般的に見られる精霊崇拝(アニミズム)という文化現象(宗教現象)を記述し、古代人は精霊崇拝に何を期待し、精霊崇拝は古代人にどのような働きをしたかを明らかにしてよう。