貞潔の遵守 あなた方の服装は、人目を惹くものであってはならない。衣服で人に気に入られようとせず、むしろ品行によって気に入られるようにしなさい。 あなた方は外出するとき、連れ立って歩きなさい。あなた方が行き先に着いたら、そこに一緒にとどまりなさい。前に進むときも、立ち止まるときも、振る舞うときも、あなた方のすべての挙動において、人目に障るようなことが行われてはならない。あなた方の聖性に相応しいことが為されなければならない。 あなた方の目がたといある婦人に向けられても、いかなる婦人にも視線を固定してはならない。無論あなた方が外出したとき、あなた方は、婦人たちを見るのを禁じられるのではない。婦人たちに邪心を抱くこと、あるいは婦人たちが邪心を抱くように望むことが咎められるのである。婦人たちへの情欲は、無言の感情によってばかりでなく、感情と眼差しとによっても、欲求され、また欲求する。またあなた方は、淫らな目をしながら、心は純潔であると言ってはならない。なぜなら淫らな目は、淫らな心を告げ知らせるからである(Mt.5,28)。そしてたとい言葉は交わさなくても、お互いの視線の遣り取りによって淫らな心を互いに表明し合い、肉の欲に従って互いに他方の熱情を喜び合うならば、たとい身体が不純な行為によって汚されていなくも、純潔そのものは、その品行から逃げ去っているのである。 婦人に視線を定め、また彼女のから視線が自分に注がれるの好む者は、自分がこうしているとき他の人たちから見られていないと思ってはならない。すっかり見られているのである。しかも見られていると思ってもみない人々から見られているのである。しかしたといその人が忍びおおせ、誰にも見られなかったとしても、何ものも監視の目を逃れることのできないかの天上の監視者については、何とすべきか(Pr.24,12)。それとも、天上の監視者は、知恵深くご覧になると同時に、忍耐強くご覧になっているのであるから、見逃して下さると考えるべきなのだろうか。聖なる丈夫は、その監視者の不興を買うことを畏れるべきであって(Pr.24,18)、邪な仕方で婦人の歓心を買おうと望んではならない。かのおん者はすべてをご覧になっていると考えるべきである。邪な仕方で婦人を見ようと望んではならない。確かに、まさにこのようなわけで、かのおん者に対する畏れが、聖書によって推奨されているのである。こう書かれている。「視線を固定する者は、主に忌み嫌われる(Pr.27,20a)」。
だからあなた方は、教会の中に共にいるときも、あるいは婦人たちのいるいかなる場所でも、互いにあなた方の純潔を守りなさい。実際、あなた方のうちにお住まいになっておられる神は(1 Co.3,16;Rm.8,9,11)、実にこのようにして、あなた方を通してあなた方をお守り下さるであろう。