テオティモス D よくおっしゃってくださいました。たしかに、そのことを学ぶのは、重要なことであり、また、難しいことでもあります。しかし私には、いかなる異論の余地もございません。なぜなら、私は、あの男の誤謬がそれほど大きいものであるかを正確に知っているからです。しかし、あの男の誤謬は、余りにも大きく、また、余りにも錯綜していて、おまけに、彼の後継者たちによって最大限に拡大されたものですから、私としては、その誤謬を理解するためではなく、それを明確化し論駁するための、できるだけ簡潔な方法のようなものを必要としています。それで、あなたにお願い申し上げます。どうか、後回しにすることなく、時間の許すかぎりで、そのような道を教えてください。そうすれば、私たちは、その道を進んで行き、いわば真理を武具として周囲を固められ、あの連中の無駄話が、詩編流にいえば、脇腹と右手から落ちて、私たちに近づくことがないのを見ることができるのです。

テオファネス ああ、この上なく善き人よ、お尋ねの件はささいなことではないのだよ。それに、私は、およそそのようなことを見渡すのに機敏でもなければ、語り尽くすのに巧みなわけでもない。しかし、愛が、君のために、私の能力を超える諸問題に着手するようにと促しているので、916A 私は、愛の神が助け主としてそばに来てくださることを望みながら、諸々の教義の指標[規範]のようなものを示して、それによって、数々の正しい事柄がばらばらにされないようにしたいと思う。しかしその指標は、次のような目的を持っている方が、君の望みにかなうだろう。つまり、私が、最近引き起こされた諸問題からばかりでなく、はるか以前のむかしから伝えられた諸問題からも、君の望むものをいくらか提示して、君が、あらゆることにおいて、真実なものを学ぶことができる、という目的でね。しかし、この論証とても、ささいなものでは決してないのだよ。むしろ、それは、我々によって宣言された真理の証明および、我々に反対することを好む者たちの間に蔓延している迷妄の証明に及ぶのだ。実際、もしも、いにしえの異端者の諸見解と今日我々に反対する者たちの諸見解とが一様な基準[規範]に適合せず、逆に、はるか以前の代から伝えられた敬虔な諸見解と我々の間で現在語られている諸見解とが(一様な基準に)一致することが明らかにされたとすれば、両者が各々どちらの側に置かれることになるかは、まったく明らかでないだろうか。B というのはね、同じもの[基準]と同じ(二つの)ものは、まさしく相互に同じであることが必然であり、それらのいずれとも異なる(二つの)ものが、それら両者とも異なるものであることは必然だからね。しかし、これらから話されることが、私によってことごとく別の言葉で言い換えられたとしても、別に驚くべきことではないのだ。なぜなら、私は、あたかも地の深みに横たわる根のような、神に関するすべての正しい教義とそうでないすべての教えの原因とをね、いま、ひとまとめに表明しようと決めたのだから。

テオティモス あなたの申し出は、なんと喜ばしいことでしょうか。それでは、もう後に引き伸ばすことなくおっしゃってください。実際、なにかを猛烈に学びたいと望んでいる人は、長々しい前置きを好まないのですから。

テオファネス それなら、いうことにしよう。君は、神学には、それ自体で信じられる事柄がありと、また、教えを受ける人の精神をその探求と検討へと促す事柄があるのをご存じか。

テオティモス C 同じ事柄が信じられたり、信じられなかったりするのですか。あなたがなにをおっしゃっているのか、私には理解できません。

テオファネス では、私がいっていることを明らかにしてみよう。

テオティモス そうしてください。そうすれば、私は、真実と思われるものと愛の契りを結ぶことができます。

テオファネス モーセは、神から教えを受けて、「聞け、イスラエルよ。お前の主なる神は、唯一の主である」といっていた。これは、それ自体で信じられる事柄ではないのだろうか。

テオティモス ええ。もしもあなたが、証明なしで信じられるものが、それ自体で信じられる事柄だとおっしゃるのであれば。モーセもそれで、耳を傾けるように命じて、宣言したとき、そのことについて後でなにも付け加えなかったのですから。

テオファネス おみごと。ちょうど感覚が、感覚に収まる数々のものにおいて理性的な証明を必要としないように、信仰も、これらの事柄において証明を必要としないからね。D したがって、このような(自明な)事柄のために、信仰のない者たちに対して、さらに他の(聖書の)言葉を持ち出す人は、だれもいないだろう。ところがだ、同じモーセは、まさにこのことを神から学んだ後で、こういっているのだよ。「主は、ソドムとゴモラの上に、主のみもとの天から、火(の雨)を降らせた」と。そして、主は、その時、ソドムの人たちの中でロトにお姿を顕されたのだから、主は、二つの顔[ペルソナ]において顕れたのだ。すると、我々は、このことも信仰によって受け入れねばならない。

テオティモス おっしゃるとおりですとも。どうして、受け入れないでしょうか。

テオファネス だとすると、我々は、主が唯一であることと、主が唯一でないことをともに信じているわけだ。したがって、この信仰それ自体は、探求し、説明を与えることを我々に強要したりはしないし、そもそも命令などしない。たとえある人が、特にそれらの事柄のために、917A どうして(主が)唯一であり、どうして唯一でないのかといって、蔑みながら(我々に)迫ってきてもだ。それは、我々が、愚か者にならないようにするためであり、こうして我々が、我々自身とつじつまの合わないことを考えたり、口にしたりしないようにするためなのだから。

テオティモス まったく、おっしゃるとおりです。実際、健全な思索をする人たちのだれ一人として、それらの事柄は各々どうなっているのかと尋ねる者に、把握されざるおん方の説明をして答えるわけがありません。といいますのも、どうなっているかと尋ねる人は、それらの各々の事柄の実在の原因を詳しく調べないで、両者の相違を詮索しているのですから。

テオファネス 君の理解には驚かされるよ。たしかに、君は、このような神学の二重性[曖昧さ]の中に、ほとんどすべての邪悪な異端が引き起こされるのを見ることができるだろう。だがね、それら両者の事柄が信じられるものであり、互いに他方にいささかも劣らず守られねばならないというふうに、説明できる人は、敬虔な人なのだよ。これに対して、あらゆる手段と方法を用いて、どちらか一方を、他方の反駁のために利用する者は、B 目下提出されている議題の各々の説明に関するかぎり、不信仰な者であり、また冒涜を働く者でもあるのだ。

テオティモス おっしゃっていることを、神のみ前で[どうか]、もっとはっきりさせてください。

テオファネス よろしい。そうしてみよう。たしか、聖なる教父たちの一団全体は、神が実体において一であり、その一なる神は(三つの)諸ヒュポスタシス[個別存在]において三であるといっていた。そして、ヒュポスタシスと実体とはそれぞれ別物である。なぜなら、両者はそれぞれ別のものを意味するから。また、それらの諸ヒュポスタシスと実体の両者は、造られざるものであり、互いに分かたれざるものである。聖なる教父たちはこのようにして、三位への信仰と唯一神への信仰とを揺るぎなく保持していたのだった。ところが、サベリオスは、三位一体の神をこのような仕方で教える人たちを非難しながら、みずから、これらの三位を一位に減じ、一性によって神性の三性を否定したのだ。C そして彼は、単一性に関する諸々の言葉を聖なる書物から寄せ集め、たとえば、「私は、第一の神、そして私は、これからも代々にわたって第一の神だ、と主はいわれる」(Is.41,1)という言葉や、主ご自身によってご福音の中でいわれたお言葉、つまり、「私とおん父とは一つである」という言葉、また、それらに似た言葉を寄せ集めて、諸ヒュポスタシスの三性を否定するための証拠として提出したのだよ。サベリオスや彼に従う者たちは、このようにしなかっただろうか。

テオティモス このへんの事情については、だれもが知っています。

テオファネス 私も、このことはすべての人に明らかであるというまさにその明晰さのゆえに、このことを持ち出したのだよ。なぜかというと、君は、このような男の諸々の発言を、同じ神が一であり三であると主張する信仰の規範と突き合わせて、彼を不信仰であり、異端者であるとして断罪できるだろうからね。D なにしろ、あの男は、唯一の神の三性を否定していたし、君なら敬虔であり信仰があると誉め讃えるような人々が、この三性のゆえに、あの男によって、多神論者であるといわれたのだ。また、アレイオスも、彼みずから、三つの造られざるものを主張する人たちは、多神論者であるといって、おん父だけが唯一の造られざるものであると強固に主張し、他の(二つの)諸ヒュポスタシスを被造物に引きずり下ろしてしまったのだ。そして彼は、聖書から数々の証言を、たとえば、「私の父は、私よりも偉大な方である」(Jn.14,28)とか、「私は、私の父から聞いたことを話した」(Jn 15,15)という証言や、神性の唯一の源を判然と明示するこれらの言葉に類する証言を寄せ集めて、聖なる三位を敬虔に伏し拝む人たちに反対するために使用したのだ。だから君は、さらにアレイオスの数々の発言をも、920A 同じ神が一であり三であると主張する信仰の同じ規範と突き合わせて、むしろこの男の方が本当の多神論者なのだということを証明できるだろう。なぜなら彼は、同じ神が造られたものであると同時に造られざるものであると主張したのだからね。ところがこの両者が、唯一の本性に適合することは不可能なのだ。

 

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