テオティモス この上もなく立派な規範[法典]です。なぜって、それは、諸々の狡猾な企みを明らかにするばかりでなく、いわばそれらを切り刻み、追い払っているのですからね。しかし、そうすると我々は、主のオイコノミアに関して誤謬に陥っている者たちをも、同じような規範によって論駁することができるのですか。
テオファネス もちろん。
テオティモス では、その規範はどういうものでしょうか。
テオファネス それはつまり、我々が、唯一の主イエズス・キリストを信じること、すなわち、人間となれれた、あるいは、二重化された神の唯一のおん子を信じるということだ。だから、もしもネストリオスが、神から出たおん方とおとめマリアから出たおん方とはそれぞれ別のものだといい、B また、あのエウテュケスが、逆に、キリストの唯一の本性を主張するのであれば、君は、彼らの諸々の発言を、同じキリストが神人として二重化された唯一のおん方であると主張する信仰の規範と突き合わせてごらんなさい。そうするとエウテュケスは、たちどころに論駁されるだろう。エウテュケスは、この二重性を否定したのだからね。また、ネストリウスも同前だ。彼は、ヒュポスタシスの単一性をはねつけて、本性の二性によってペルソナの一性を覆そうと企てたのだからねえ。
テオティモス しかしですね、あなたは本当に、あのバルラアムや大胆にも彼に迎合する者たちの数々の誤謬をも明らかにして、これと同じやり方で論破できるのですか。
テオファネス もちろんだとも。
テオティモス では、このことについても、私たちのために、たくさんの言葉を使って、詳しく説明してください。
テオファネス ああ、説明しよう。C モーセの諸々の言葉からあの最初の規範を君に提示したように、こんどはこの規範を、諸教父の諸々の言葉から示してみよう。というのは、教父たちは、主の誓願の点で、みな一致しているからね。そしてこの誓願を、同じ規範として、まさしく彼らの一人一人から提示することができるのだ。ただ、かなり頑なな見解を抱いている者たちのせいで、多くの言葉を必要とするけれどもね。
テオティモス 神のみ前で[どうか]おっしゃってください、テオファネス。あなたによって引き合いに出された教父たちの一人一人について、話している人物はだれなのですか、そして、彼らの発言のど箇所でその人は語ったのかを。そうすれば、希望する人は、彼らの著作の中に、各々の見解を読み取ることができるでしょう。
テオファネス では、とくに、目下提出されている問題にとってぜひとも必要なものに限って、そうしてみることにするよ。さて、あの偉大なるバシレイオスは、ダビデの『詩編』第四四番を解明して次のようにいっている。「力あるおん方の美しさは、D そのおん方の可知的で観想的な神性である」と。また、神学者グレゴリオスは、神的な洗礼を受けることを勧めて、「光は、(タボルの)山上で弟子たちに示された、目にはいささかきつい神性である」といっている。さらに、彼は、クレドニオスに宛てて、こうも書いている。つまり彼は、「たしかにそのおん方がやがて来られるのです。しかも、わたくしの言葉でいいますと、その神性がちっぽけな肉の塊を軽々しく凌駕するにもかかわらず、(かつて)弟子たちに見られたり、示されたりされたおん方が」といっているのだ。そして、あの偉大なマカリオスも、霊的な観想をできるかぎり解明し、啓示の光に関して明瞭に述べて、「一切の悟性的推論が、あるいくつかの感覚的対象の表象をとおして、心の中に入ってくると、神性の幸いな光がその心を照らす。そのときその心は、それらのすべての感覚的対象を完全に享受するが、それでいてそれらから形を受けることはない。921A というのは、そもそもあの輝きは、すべての思惟内容が剥脱されたときに、純粋な精神に顕れるものだからだ」といっている。さらに、あの神的なメトロファネスも、楽の音に合わせて次ぎような詩歌を作った。「おお、その実体において観想されざるみ言葉よ。おん身は、人間として見られ、おん身の神性の参与へと人間を呼び戻された」と。また、ニュッサのグレゴリオスも、聖霊に対して戦いを挑む者たちの見解を覆そうとしてこういっている。「神性の呼び名は、本性を表すのではなくて、(聖)霊の透視能力を表している。もしもなにごとかが本性についていわれるとしても、本性をめぐる数々の事柄のなにごとかが表示されるのである。しかし神の本性そのものは、指示されえず、言語を絶したままであり続ける。なぜなら、神の本性は、言語による一切の指示作用を超えているからである」と。さらに、同じクレオゴリオスは、アブラビオスに宛てて次のように書いて、「神は、働くおん方を明示し、神性はエネルゲイアを明示する。しかし三つの位格は、いずれもエネルゲイアではない。むしろそれらの位格の各々は、働くおん者なのである」といっている。B また、あの偉大なアタナシオスは、マケドニオスに反対してこう書いて、「神であることは、本性の次に位置する。なるほど私たちでさえも、神々になる。しかし私たちは、本性そのものに属するようになることはできないのである」といっている。再び、あの偉大なバシレイオスは、医者のエウスタティオスに宛ててこう書いているよ。つまり彼は、次のようにいっているのだ。「このようにありとあらゆることをでっちあげる者たちが、どうして神性という呼び名を本性の表示に適用するのか、私にはわからない。というのは、その呼び名は、監視する権能なり、働く権能なりといった、なんらかの権能の表示を帯びているからである。しかし、神の本性は、考えられるありとあらゆる名称によっても、ちょうど私たちの言論[理性]と同じように、そのままでは、意味を持たないであり続ける。なるほど私たちは、数々のエネルゲイアをとおして、エネルゲイアの様々な相違を教えられた。しかしそれでも、私たちは、それらのエネルゲイアの観察によって、働くおん方の本性を見出すことはできないのである。C 実際、だれかが、それらの名称の一つひとつと、それらの名称がかかわっている本性それ自体とに定義[説明]を与えても、彼が、それらの両者におなじ定義を与えることはないだろう。さらに、定義が異なるものに対しては、本性も異なるのである。したがって、それを明らかにする定義がいまだかつて見出されたことのない、その当の本性と、なんらかのエネルゲイアあるいは品位から名付けられた、それをめぐる数々の名称の意味作用とは、互いにまったく別物である。こういうわけで、私たちは、諸々のエネルゲイアの中に(三つの)ペルソナのいかなる相違も存在しないことを、数々の名称の相互転用から見出すのである。また、私たちは、本性における差異に関して、その明白な証明を決して思い付かないのである。というのは、すでにいわれたように、諸々のエネルゲイアの(三つの位格における)同一性は、(諸々のエネルゲイアにおける神の)本性の共通性を暗示しているからである」。それに、あの偉大なデュオニュシオスも、天の位階の神的な平安を賛美しながら、「我々は、始元的で、神的で、原因的な意味で、神性それ自体が、D 超実体的で超始元的な唯一の始元かつ原因であると主張する。他方、我々は、分有的な意味で、神化それ自体が、分有されざる神から与えられた摂理的な力であると主張する。諸々の存在者は、その神化に各自に固有な仕方で参与して、神に満たされたものとなるのであり、また、そういわれるのである」といっているよ。また、彼は、存在するおん方の神名を解き明かして、次のようにいっている。「み言葉は、超実体的な神性の超実体的な善性を、すなわち、一切の善性と神性とを超え、しかも、聖言がいうように、隠れたところに鎮座する善性を語り明かすとは、約束されなかった。むしろ、み言葉は、善性をもたらす摂理を顕らかに示す卓越した善性と、すべての善きものの原因とを賛美なさるのである」と。さらに、彼は、ガイオスに宛ててこう書いているよ。彼は、「たとえあなたが、神化の恵みの賜物が神性だとお考えになるとしても、一切の始元を超える超始元的なおん者は、924A 神性の源および善性の源という意味での神性の彼方におられます」というのだ。そればかりか、同じディオニュシオスは、存在するおん方について神学的に発言して、さらに、次のようにいっている。つまり、彼は、神性が、すべての善きものの原因を超える神性であるといった後で、自分がこの原因をそれ自体で存在する個別存在者であって、隠れたところに存する超実体性の摂理的なデュナミスでも発出でもないと考えていて、かくしてこの種の実体が、唯一の実体よりもたくさん存在すると主張しているなどと、自分の話を聞いている人たちに思われないようにするために、こういっているのだ。「私は、原因がたくさんあるとか、優劣の違いのある多くの神性があるとかいっているのではない。むしろそれらは、唯一の神の完全無欠な善き発出であるといっているのである」と。また、偉大なバシレイオスは、医者のエウスタティオスに手紙を送り、こういっているよ。すなわち、「わたくしは、神性という名称を、神の本性という意味で理解する人たちにとても賛同できません。そういうことではなく、むしろ、もしもだれかが、神の本性は神性であると主張すれば、それは、唯一の本性が三つの位格に属しているということであり、B また、もしもだれかが、エネルゲイアを神性と名付けるとすれば、それは、唯一のエネルゲイアが三つのペルソナに属しているということなのです」とね。さらに、偉大な神学者グレゴリオスは、「あなた方は、実体との関係に即して、あるいは、神性との関係に即して、唯一の光によって照らされたのです」といっている。また、彼は、『おん子について』の第二巻の中で、こうもいっている。すなわち、「むしろ、存在するおん方と神とは、ある意味で、実体の諸名称である。それらの内で分けても、存在するおん方という名称がそうである。なぜなら、神という名称が、たとえ、走るという言葉から、あるいは、燃やすという言葉から語源的に由来するとしても、それにもかかわらず、それは、あるものとの関係において語られる数々のものに属しているの[相対的なもの]であって、独立したもの[絶対的なもの]ではないからである」と。そして、あの偉大なマクシモスは、「唯一の神がおられる。なぜなら、神性は、唯一であり、単純、そして、分かたれず、分割されず、不可視的で、把握されざるものだからである」といっている。また、エルサレムの総大司教座をひときわ有名にしたあのソフロニオスは、「我々は、唯一の神に思いを致すように教えられたのと同様に、唯一の神性を告白することを(先人たちから)受け取った」といっている。そうであれば、我々は、同じ神の神性が、C ある時は唯一であり、またある時は唯一ならざることを、教父たちから教えられているのではないだろうか。しかもそれでいて、その違いは、非被造性に反するものではないということを教えられているのではないかね。実際、敬虔であるといわれている人たちのいったいだれが、神の顕示者たるあのアレイオスパゴスのディオニュシオスは、自分の発言が、すべての善きものの原因であり善性をもたらす摂理にかかわっていて、完全に言語を絶した神的な超実体性に関するものではないと主張したという口実の下に、その摂理は造られたものだというだろうか。あるいはまた、彼らのいったいだれが、偉大なバシレイオスによると神性という呼び名は、神的権能を指示しているのであって、神の実体を指示しているのではないというのに、その権能は造られたものだというだろうか。また、彼らの内のいったいだれが、神的な頭領たるニュッサのクレゴリオスも神学的にいったように、聖霊の本性は、その非言表性と超名称性の点で、聖霊の透視能力を超えているというのだから、その透視能力は造られたものだというだろうか。したがって、我々は、唯一のおん方の神性は、唯一であるとともに、別の点では唯一ではないと教えられているのではないだろうか。
テオティモス D まったくそのとおりです。