昔、選ばれた人びとを永遠の宴に招こうと、方々でさまざまな方法で語られた神は、私たらの時代すなわら牛後五時になって、招待された人びとにやってくるよう僕を遣わされた。なぜなら全てが整えられたからである。聖グレゴリオは、現代におけるこの僕とは説教者兄弟会であると解釈している。同会は、近く裁きの人がやって来ることをはっきりと人間の心に刻み付けるよう遣わされたのである。そして、聖書が予言したように、説教者兄弟会なるものは生まれて来る運命にあったと考え、「晩餐の時刻に僕を遣わした」と言われるその時は、この世の終わりも近くなっている時であると言明している。晩餐の時刻はこの世の終わりである。そして、われわれはこの世の最後の放浪者である。それゆえ、新しい修道会が晩餐の時刻に遣わされた。このことの起こったのが私たちの時代である。この新しい修道会は同時に古いものだと私はいいたい。誕生においては新しく、実質においては古い。新しいどこるではない。時間的空間においては最新というべさである。しかし、神の定めを考えるとき一番古いものに属する。一デナりオ(金銭の単位)の約束で朝早くぶどう畑に労働者が雇われ、午前九時・正午・午後三時にもまだ畑に送られる人がいるが、それでもまだ残っている。いや、前よりも多い人数が残っている。午後五時には最後の労働者が前の何倍にもふくれ上がっている。この人びとが説教者兄弟会士であり、謙虚にも裁きに耐えたあの御方の裁きが近づいたので、証人の数が増えるようにと、現代の浮き沈みに対抗して神の御摂理を護ったのが彼らの修道会である。それゆえに彼らは、 「神は止しいもの」と告げる使者となりうるよう、成長していくことであろうこれわは、教皇の輿の飾りとなる鈴である。これらは、全地上を駆け巡ろうとふたつの青銅の山の間から旅立つ四頭立ての馬車につながれた強いまだら色の馬である。そして、この修道会の秀れた創立者であり父である人は聖ドミニコである。彼の死・奇跡・日の入りの時刻に世界の内に出現した修道会。これらと共に諸徳に満ち神の目に快よかったドミニコの生涯について語ることにする。イエス・キリストの恩寵の助けにより、拙劣ではあろうが、真実に基づいた文章で書き現わすことを希望して、筆を取る。