12 オスマの司教の計画と死――宣教の勇士兄弟ドミニコ

 

しかし信仰を教え説くうちに二年が過ぎ、司教は委されていたオスマ教区をなおざりにしている責を問われないように、スペインへ帰る決心をした。前述の女子修道院の認可が下ったならば、教区から小額の金銭を引き出すこと、宣教の仕事に戻ること、教皇の同意があれば宣教の任務に適した人びと何名かを任命することを計画していた。その人びとの任務は、異端の誤謬を攻撃し、またその誤謬に対して恐れずにカトリックの信仰を守り抜くことにあった。かの地に何人かを残し、兄弟ドミニコを霊的指導者に、ギリェール・クラレーを財産管理人とした。ただし後者はなすこと全てを兄弟ドミニコに報告する義務を負っていた。

ディエゴは疲れ果ててオスマに着き――徒歩旅行をしたのである――、その地で生命の終わりに到達した。そして豊かな憩いに休むため墓に入り、永遠の生命を生き始めるために限りある道を終えた。

その死後、奇跡によって輝かされたと言われている。そして生存中には徳に満ちていた人が、天において君臨し奇跡の光によって輝いたのは不思議ではない。

宣教のためトゥールーズに残った人たちは、オスマの司教の死を知ると家に帰った。兄弟ドミニコのみが何人かの伴侶とともに、落胆することなく忍耐強く宣教を続けたのである。何人かが彼に続いたが、しかし誓願を立て従順を誓った訳ではない。彼とともに残った人びとのうちひとりがギリェール・クラレーであるが、彼については前に述べた。もうひとりは、やはり兄弟ドミンゴとよばれるスペイン人で、後にはマドリード修道院長となった人である。