15 彼の手本の示した効力

 

俗人の心は言葉よりも手本によって動かされること、それゆえ数多の人が異端の誤った迷信にそそのかされて過失を犯していることを神の僕はそのときに悟った。それで、あの異端者たらの示す手本を他の手本で抑圧し、徳を仲介として偽りの悪い知恵を攻撃しようと決心した。

トゥールーズの地に貴族が何人かいたが、異端者たちは羊の皮を着た強欲な狼の如く、偽装するためのかぶりものをつけ、彼らの友情を利用していた。つまり習性に従い、表面には見事な謙譲の徳を、動作には純朴さを、会話には穏和さを、食事には非常な質素をてらい、断食していることが人に解るようにと顔付を変えた。いかに鋭い人であろうと、一見したのみでは騙されるであろう。だれも彼らは聖人だと考えるであろう。霊魂の救済に熱を入れていたドミニコは、純な人びとの理性がこういう作りごとに幻惑されているのを痛み、異端者たちを信頼しかつ彼らの友人であった貴婦人の一団と知り合うと、求めて四旬節の間そこに滞在した。そして自分の聖性を示して彼女らを虜にしようとし、神の恩寵がなければ耐えることもできないようなはなはだしく厳しい態度でわが身を律し始めた。伴侶も同じくそうした。それゆえ、宿主たちが習慣どおり用意した食事をさし出すと、彼は言った。 「私たちはこういう食事は取りません。パンと冷たい水だけを下さい」。このようにして、聖なる人とその伴侶は復活祭までの四旬節の間ずっとパンと水で節食をした。それで異端者の友は「本当にこの人たちは立派だ」と称賛した。上等な寝床を提供されるとこう反駁した。「柔らかなものの上ではなく、板の上で休みましょう」。そして何も敷いてない板の上に寝床を準備して寝た。四旬節の間は毎夜こういう寝床の上で休み、隣人の救霊に役立つようにと肉体を苦しめた。十字架という処刑台の上に眠ったあのかたを手本に、木の板の上で毎夜寝たのである。彼の眠りは短く、夜明け前に出来るだけ早く起き、祈りに身を捧げた。またドミニコは、どうしても必要な、しかし粗末な衣服を何枚か自分と伴侶たちのために探してくれろよう何人かの婦人に依頼した。とり急ぎ必要としている衣服はどんな物かと彼女らが訊ねると、 苦行衣です」と答え、そして付け加えて言った。「だれにも解らぬようにして下さい。貴女がたに秘かにお願いするのですから」。彼女らはそのようにすぐれた聖性を前にして驚き呆然とした。そしてカトリックの真実の信仰に次第次第に引き込まれていった。

神の霊に満ちたドミニコは、人びとに賛め賛えてもらうためではなく、不信の人びとの理性をカトりックの愛に服従させるため、また異端のいつわりの誤りからその人びとを救うためにこれらの全てのことをしたのである。もし聖なる父の熱心さが偽善者を真似たものだと信ずる者がいるのなら、偽善にはふたつの面があることを思い出して見よ。ひとつの面は美しく外面的な借り物であり、もうひとつは内在している醜悪な本物である。外面は美しく、これで人を欺く。内部は醜悪で、これによって霊魂を腐敗させる。借り物で生き、不正手段を用いて他人を利用する。その外の姿は徳を装い、内面は醜い悪徳の権化である。つまり、外には謙譲さを見せ、霊魂を偽りで満たす。つまり真の徳と偽善に共通しているものすなわち善く見えるもの、これを神の僕は慎重に区別し、悪徳特有のものすなわち内面の虚偽を捨てた。卑しいものから立派なものを分離したのである。偽善者たらも人を引き寄せるのに用いる黄金の光を、ドミニコは兄弟愛がそれを要求した時のみ、ある点までこれを人びとに示したに過ぎぬ。そして彼の心には偽りは存在しなかった。なぜなら彼の良心には猜疑もなく、内部は純金の輝きで明るかったからである。全ての善の源であり結果である愛徳――この愛徳があれば咎められるものは何もなく、この愛徳がなければ、賞め賛えられるべきことは何もできぬ――がもしなければ、いかに努カしても完徳は望めないが、彼のばあいは内部に確かに聖性が存在していたのでこれをいくら外に示しても偽善ではなかった。

そのためこの聖なる父は、世俗の人びとと同席している時には少なからず節制と思慮深い徳を表わし、また隣人の教育のためにも、言葉と態度に礼儀作法を忘れぬようたびたび修道士たらに勧めた。そうすれば、ある種の聖なる偽善を用いることにより、容易に人びとに徳を愛し信仰を重要視させるようにできるであろうとも言っていた。使徒はキリストの福音の普及をはばまぬために、報酬を受理することは拒否した。そして、多くの入の好意を得ようと自分の徳や仕事ばかりでなく、神の啓示までも人に語ったのである。こうしたことは次のように記されていることにより、正しいことと看做される。「このようにあなたたらも人の前で光を輝かしなさい。そうすれば、人はあなたたちの良い行ないを見て、天においでになる御父を崇めるであろう」(註・マテオ五ノ一六)