17 宣教の労苦――プルイユ近隣

ドミニコ会は当時いまだ創立されておらず、また今日の修道会で見られる会則もひとつとして公布されてはいなかった。ただ創立が企てられていたのみである。その間兄弟ドミニコは根気よく宣教に打ち込んでいた。そしてファンジョlおよび他に二、三の教会を自分と伴侶たらの糧のために所有していた。またモンフォール伯が寄贈したカッセニューイ城も持っていた。

この伯爵は、彼に対して燃えるような尊敬の心とまれな精神的愛情を抱いていた。

しかしドミニコは、全ての財産から上がる利益の大部分をプルイユの修道院の修道女たらに渡すように努めていた。

そして聖ドミニコは、約十年の間その地に留まった。すなわちオスマの司教ディエゴの死からラテラノ公会議が開催された時までである。