32 ある司教が修道会の起源の聖性を確かめる

 

ボローニャの修道院で修道士の数がふえていた頃、オスティアの司教であり、シトー会の一員であるコラードとよばれる教皇使節がボローニヤに来た。そして説教者兄弟会の修道院でしかるべき名誉をもって迎えられたが、この修道会に関して、ある疑念が彼の心を煩わしていた。新しくそして聞いたことのない同会の意義、およびこれが人間のものか、それとも神のものであるのかという疑問であった。椅子を勧められたので、修道士の間に坐って、本を一冊貸してくれるように頼んだ。すると、彼らはミサ典書をさし出した。十字の印をしそれを開くと、第一頁の上部に次のような言葉が書いてあった。「LAUDARE, BENEDICERE ET PRAEDICARE」「ほめ賛えよ、祝福せよ、そして宣教せよ」。天のものなる回答の発見に喜び、不安定であった杞憂は消えた。そして修道士たらを優しく抱擁するがごとく、次のように言った。「私は外面では他の会の衣を着ているが、心の内ではあなたがたの伴侶です。私があなたがたのものであるこどを疑わないで下さい。私はこの会に属しており、全ての愛をもってあなたがたにすがるのです」。

詩の本や神話の本から得た単なる推測によって、物事の結果や不確かな事件を詮索する目はしのきくペテン師をあたかも是認するかのようにこの話をするのはやめにしよう。なぜなら不確実な事情に基づいて予測しながら末来について確実だと推し測ることと、人が疑いを持っている時、つまり判断が動揺している時、祈りを通してある神託を要求することとは非常に異なるものである。それゆえ、ダビデやそのほか古代の族長たちは、たびたび主に相談を持ちかけたのである。しかしこれは必要のない時に用いる手段ではなく、また奇跡が示されなければ信じるべきことでもない。なぜなら、 「主なるあなたの神を試みてはならぬ」(ルカ四・一二)と書かれている。もう一箇所聖書に記されている。 「なにをなすべきか解りませんので、われわれの目を主に向けるほかないのです」(歴下二〇・二)。このことによってユダヤ人は、彼らの神たる主に保証の証を求める根強い習慣を保持しているのである。