What is Muramasa Blade? |
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村正 徳川家に祟り、妖刀と恐れられた不遇の名刀 『村正』とは15世紀末から16世紀末までにかけて伊勢桑名(三重県)に住んでいた刀鍛冶の名称である。刀工『村正』は初代から三代まで続き、彼らの打った一連の作品の銘もまた、『村正』と呼ぶ。 彼らは刀だけに留まらず、槍や短刀など様々な作品を鍛え、それらが全て『村正』と呼ばれている。この一連の刀工の初代村正は、かの正宗の弟子であったと伝えられている。正宗とは日本第一級の名工の事で、その銘を持った刀工は歴史上八人いた事が確認されており、このうち名人と呼ばれていたのが、鎌倉幕府の抱え工であった相州正宗その人である。 村正達の打ったその刀は、正宗のそれとは異なり、外見上の華やかさには欠けていたが、反面恐ろしいまでの切れ味を誇っていたという。そしてこの切れ味は妖刀村正の名と無関係ではなかった。 この妖刀という不名誉な名が付けられたのには無論理由がある。徳川家との相性が恐ろしく悪かった為である。事の始まりは家康の祖父、松平清康の災難から始まった。彼は尾張の織田信長との合戦時、自らの臣下である阿部弥七郎という武士に『千子村正(せんじむらまさ)』でもって斬り殺された。右の肩先から左の脇腹まで、文字通り真っ二つにされるという、恐ろしい切れ味であったという。 さらにその十年後の天文十四年、西暦1545年、今度は家康の父、松平広忠が近臣の岩松八弥に脇差しで突き殺されそうになるという事件が起きる。この際に用いられたのもやはり村正であった。さらにその後、家康の嫡男信康が武田家との内通を織田信長に疑われ、切腹に追い込まれた際の介錯刀もまた、千子村正であった。 家康本人も関ヶ原の合戦の際、織田有楽斎の息子が、甲冑を付けていたにも関わらず、その鎧を貫通して戸田武蔵野守を討ち取ったという報告を受け、本当に貫通したのかどうかを実験していた所、誤って指を切り落とすという災難に遭っている。 こうした凶事が相次いだため、家康はとうとうこの村正を全面的に使用禁止とし、廃棄処分命令を下した。しかしその切れ味を惜しんだ家臣の中には、その銘を正宗、正広などに書き換えて誤魔化すなどした者もあったが、所持していたのが判明し切腹となった武士もあった。またその為、倒幕を志した志士達に非常に好まれるという一面もあったということである。 |
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