Honey Summer Sweet







「そうだ、今晩なんだが、ちょっと出かけてくる」
 朝食の席で、橘亜希人は向かいに座る三谷要に向かってそう言った。息子の一実が茄子焼きを食べるのを見守っていた三谷は、不思議そうに顔を上げる。
「今晩ですか? いいですけど、誰と会うんですか? 青田さん?」
「いや、佐伯という人だ」
 昨日、一実を幼稚園に迎えに行ったときに、同じようにお迎えに来ていた佐伯に声をかけられたのだ。初めて会ったのだが、彼は初めてのお迎えで緊張していたところに橘を見かけてほっとしたらしく、向こうから挨拶をしてくれた。少し立ち話をして、どういうわけか親近感を覚えたらしい佐伯に、よければ飲みにいきませんか、と誘われた。
「佐伯さん?」
 三谷がいぶかしげに眉を寄せ、橘が「幼稚園の……」と説明しようとすると、一実が遮るように「佐伯さんはねー」と声を上げた。
「じゅりちゃんのパパだよー。今ね、おかーさんがイエデしてるんだってー」
「そ、そうなのか?」
「うん、じゅりちゃんがなやんでた」
「……そうか……」
 今まで佐伯を見かけたことがなかったからなにか事情があってだとは思ったが、そんなに深刻な事態だったとは思わず、橘も難しい顔になる。三谷は味噌汁を飲み干して首を傾げた。
「そんな状態で、亜希人さんを誘ったんですか? じゅりちゃんの面倒も見なきゃいけないでしょうに」
「だいじょうぶだよ、じゅりちゃんのおばあちゃんがしゅうまつくるってじゅりちゃん言ってたよ」
「――幼稚園児になにもかもつつぬけなのが怖いな」
 こんなことでは我が家のこともよその家庭につつぬけなのだろうか、と考えてしまいながら、橘は食器を重ねて立ち上がった。見下ろした三谷は、どことなく不満げなような、寂しげなような表情に見えて、橘は安心させるように笑ってみせた。
「できればゆっくり話をしたいと誘ってくれたんだ。なんで僕がと思わないでもないが、悪い話でもないだろう? 遅くならないようにするから」
「あ、いえ。こっちのことは気にしないでください」
 慌てたように三谷が微笑んだ。嘘つけ、と橘は思う。これでもけっこう三谷の表情を読むのには慣れたと自負しているのだ。きっと三谷のことだから、自分が一緒に行けないのを寂しがっているのだろう。だが、それこそ一実を夜に一人にするわけにはいかない。
 実を言えば、佐伯に「よかったらお近づきの印に飲みませんか」と言われたときには、橘も一瞬断ろうと思った。けれど、一実のことを考えたら「お父さん友達」ができるのもいいか、と思い直した。もちろん、本当の父親は三谷だ。できるだけ佐伯に三谷のことをアピールして、三谷とも仲良くしてもらえるように、今夜は務めよう――そう思いながら、橘は皿洗いするべく、袖をまくり上げた。


 夜七時に駅前で待ち合わせた佐伯は、よく使うという落ち着いた居酒屋に案内してくれた。半個室のような席は居心地がよく、佐伯が選んでくれた日本酒も料理もなかなかおいしかった。
「すみません、ここのところごたごたしていて、息抜きしたいと思っていたところに橘さんを見かけたものですから、つい誘ってしまいましたが、おつきあいいただいてありがとうございます」
 そう言って、人のよさそうな顔でにこにこしながら酌までしてくれた佐伯がぽつぽつと話した内容を総合すると、一実から聞いていたのとだいたい同じ状況だった。妻とは喧嘩中ということで、原因は聞かなかったが、正直そんな話を他人にしている場合があったら自分の妻と話しあったらどうだ、と橘は思う。だが、そう言わずに最後までつきあったのはやはり三谷と一実のことがあったからだ。自分の取った言動で三谷や一実にまで悪印象を持たれたくない――そんなふうに考えて、橘は一人で気恥ずかしくなった。
(僕もけっこう大人になったものだな)
 そんな感慨にふけって、奥さんとはちゃんと話しあったほうがいい、などと親身にお説教までしてみたら、佐伯は感激してくれたようだった。最後はなぜか泣かれて抱きつかれて感謝され、橘は彼の背中を叩いて宥めてやった。
 まあこういうのも悪くないかもしれないな、と思いながら帰宅すると、玄関で三谷が待ち受けていた。
「ただいま要」
 ほっとして橘は顔を綻ばせた。なかなか楽しかったぞ、と報告しようとして、三谷の顔がいつになく強張っていることに気づく。
「……要?」
「どういうことですか」
 思わず呼びかけた橘に、三谷は聞いたこともないような低い声を出して、橘は後じさりそうになった。理由はわからないが、三谷はどうやら怒っているらしい。それも、ものすごく。
 なぜ帰ってくるなり怒られなければならないんだ、と理不尽さにむっとして、橘は顎を上げて言い返す。
「どういうと言われても、なんのことだ?」
「佐伯さんのことです」
「無事に親睦を深めてきたぞ。次の機会はおまえも一緒にと言っておいた」
「次の機会なんかどうでもいいです」
 三谷はきらりと目を光らせて、橘の肩を掴んでドアに押しつけた。
「どうして、抱きつかれたりしたんですか!」
「抱きつかれたりって……おまえ、なんでそれを」
「なんとなく嫌な予感がしたから見にいったんです! そしたら案の定橘さんはかっこいいだとか、素敵な人だとか言われて抱きつかれて、なのに亜希人さんときたら全然抵抗してなかったでしょう!」
「……ちょっと落ち着け、要」
 力をこめて抱きしめてきた三谷の肩越し、奥の部屋から一実を連れた青田が気まずそうな顔を覗かせているのに気づいた橘はため息をついた。
「青田を呼んだのか? 僕の様子をうかがうためにか?」
「俺のことはどうでもいいんです。どうして抵抗しなかったんですか」
「どうしてってな、佐伯さんは理由はどうあれ、落ち込んでいたんだ。無下にするわけにもいくまい」
「落ち込んでたら抱きつかれても許しちゃうんですか亜希人さんは」
「許す許さないって問題じゃないだろう」
 こんなわがままを三谷が言うのは珍しい。内心驚きつつも、橘はなだめるために三谷の肩をかるく叩いた。
「だいたい、男同士でちょっと抱きあうくらい、酒の席でならよくあることだろう。僕はああいうのは好きじゃないが」
「好きじゃないのになんで抵抗しなかったんですか」
「――だから」
 全然引き下がろうとしない、橘の言い分を聞こうとしない三谷の態度に焦れてきて、橘は眉根を寄せて三谷を引きはがした。
「なんで僕が怒られなきゃならない? 僕は僕なりに考えて――」
「亜希人さんは危機感が足りません」
 言いかけた橘を遮って、三谷は真剣な目で言い放った。不自然な会話に聞こえないかとひやひやして青田と三谷を見比べていたせいで、橘は腹を立てるよりもはらはらして三谷を睨んだ。
「危機感とはなんだ、おかしなことを言うんじゃない。それより青田、世話をかけてすまなかった」
「や、一実くんはすごくいい子だったし、世話するほどのこともなかったんだけどさ」
 困ったように頭をかいて、青田は奥から出てきて三谷を橘を見比べた。
「えっとまあ、気持ちはわかるけど、仲良くしろよ?」
「青田さんは黙っててください」
 せっかく仲裁をしてくれようとした青田にまで三谷は取りつくしまもない声でいい放ち、橘は今度こそむっとして三谷を強く睨み上げた。
「おまえにそんなことを言われる筋合いはないぞ。青田にまで一方的なことを言うなんて、おまえらしくないじゃないか」
「――」
 ぐっ、と三谷は唇を噛んで顔を背けた。「とにかく、亜希人さんは二度と佐伯さんと二人きりででかけちゃだめです」
「要、まだそんなことを――」
「あっほら俺帰るから! 橘さんちょっと外まで見送ってよ。三谷もまたな、今度おごれよー!」
 わざとらしいほど明るい声で青田が割って入って、橘の腕を掴んで引いた。なんの真似だ、と橘は眉をひそめたが、見送りをするのも礼儀かと思い直して外に出る。
 ドアが閉まると、青田はなんだか疲れたような表情でため息をついた。
「あのさ、三谷の言い分も一方的すぎると思うけど、多少男ならわからんでもない部分もあるからさ、あんまり三谷と喧嘩するなよ?」
「僕も男だが、三谷の言い分は筋が通ってない」
「筋の問題じゃないって。えっとほら、一実くんの教育にもよくないし」
「……それは、そうかもしれないが」
 一実を持ち出されると圧倒的に弱い橘は口ごもる。青田は同情するような表情で、ぽんと橘の腕を叩いた。
「こういうアドバイスってすごく複雑な心境だけど、三谷と橘には仲良くしててもらわないととばっちりくいそうだし、頑張って」
「……迷惑はかけないようにする」
 青田の言う「複雑な心境」の意味がよくわからなかったが、喧嘩はよくないということだろうと思って、渋々橘は頷いた。じゃあな、と手を上げた青田を見送って、よし冷静に対応するぞ、と部屋の中に戻ったのだが、居間に入ると三谷は相変わらず不機嫌な表情だった。
「幼稚園のお迎えも、しばらく俺が行きます」
「……要」
 なぜそこまで佐伯を悪者みたいに扱うんだ、と橘は顔をしかめた。たしかにちょっと頼りなさそうではあったが、悪い人ではないだろうに――まして橘としては、一実の友達の親と仲良くするのはいいことだろうと考えて、わざわざ誘いに応じたというのに。
「――もういい」
 いっそ悲しいような気がしてきて、橘は踵を返して一実を呼んだ。
「おいで一実。風呂に入ろう」
「うん」
 黙って大人のやりとりを見守っていた一実がついてくる。二人して服を脱ぎ、浴室に入ってしばらくすると、一実はそっと橘の手を握ってきた。
「あした、ぼくといっしょにイエデする?」
「……どうした、急に」
「だって、パパが怒ってて、たちばなさんいやなんでしょ? そしたらイエデすればいいんだよー。ぼくもいっしょにいってあげるから、こわくないよ」
「いや、一人でも怖くはない……じゃなくて、家出はよくないことだし、僕は子供じゃない」
「でも、じゅりちゃんのママもおとなだけどイエデしたんでしょ」
「――そうだが」
 口ごもると、一実は自分でわしゃわしゃと身体を洗いながら、ませた口調になった。
「ぼくもね、パパのほうがわるいとおもう! だっていみわかんなかったもん!」
「そうか。そうだよな。理不尽だったよな」
「うんうん、リフジンだった」
 こくこく、と一実は何度も頷いてくれる。きゅんと愛しさがつのって、橘は一実の頭を撫でた。
「じゃあ、明日は二人で出かけようか」
「イエデする?」
「家出とはちょっと違うかもしれないが」
「でもパパはいかないんだよね?」
「要は行かない」
「じゃあいいよ、いっしょにいってあげるー」
 にこ、と一実は笑った。「ぼくたちばなさんのおとうとだから、たちばなさんといってあげる!」
「ありがとな」
 もう一度一実の頭を撫でて、そういうのもいいか、と橘は思う。たまには、三谷と離れることも必要かもしれない。二度目の夏――思えば一緒に暮らしはじめてから、ほとんどずっと一緒にいるのだ。少し距離を置いてクールダウンしてから、もう一度ちゃんと話そう。
 三谷がただわがままであんなことを言うとは思えない。けれど、風呂から上がって話を蒸し返しても、結局また言いあいになるだけな気がした。明日一日一実とでかけて、なにかお土産でも買って、そうしたらその間にお互い冷静になれるだろう。
 どこがいいかな、と考えはじめると、やっと心が落ち着いてきて、橘はひそかにため息をついた。
 理不尽だと思うし、三谷のほうが圧倒的に悪いと思うのだが、それでも。
(……それでも、三谷の不機嫌な顔はこたえるな)
 大切な相手を怒らせることは、つらいものなんだな、と橘はしみじみした。  
 


 





次へ