がまんしようとは思っています。







 新知光幸は自分が比較的我慢強いほうだと思っていたし、部活の先輩や友人からの評価も「辛抱強い」とか「我慢強い」とか「粘り強い」とか、そういうふうに言われることが多かった。
 でも、実際は少しも我慢強くなかったんだな、と、今は思う。
 出版社のエレベーターホールでちっとも来ないエレベーターと、ちっとも来ない立ち話中の先輩を待ちながら、全然我慢できないなあ、と思って、ついにへらっと笑ってしまう。思い出し笑いというやつだ。
(……思い出し笑いするやつはスケベ、っていうの、意外と本当だったのかも……)
 しかもその思い出す内容もまあまあヤラシイ、と考えて、光幸はまたへらりとした。
 だって、どうにかやっと恋人っぽいポジションまでこぎつけた光幸の大事な人は、とても可愛い人なのだ。見た目はとても綺麗でどちらかといえばひんやりしたような、近寄りがたい素っ気なさを漂わせているのだが、中身はなんとも可愛らしい。ふだんはきつい眼差しがとろりと潤んで「信じるから」などと言われたらたぶん落ちない人間はいない、と光幸は思う。
(えへへ……可愛かったなあ……鳴さん……)
 ベッドの中でも淡白なのかと思ったら、慣れていないようでいちいち反応が可愛らしかったし、光幸が誠心誠意愛情のたけを込めたらそれが伝わったのか、翌朝はあんまり邪険にもされなかった。たぶん、生きてきた中で今が一番幸せだ。自分が好きになった人に――それも今まで感じたことがないほど強く、好きだと思える人に振り向いてもらえるというのは、こんなに満たされた気分になれるものなのだ。
(はあ……大好きだなあ……今すぐ会いにいってぎゅってしたいなあ……)
 会いたくてたまらなくて、会いにいったときの表情や声を表情すると、とても我慢なんてできなかった。やっぱり今日は仕事が終わったら行こう、と決めて、にへにへしながらエレベーターの下向きボタンをつん、と押すと、「おまえなにやってんの?」と呆れた声がした。光幸は慌てて振り向く。
「鈴巻先輩、お話終わりました?」
「ああ悪いな、待たせて。…………なににやにやしてんだよ、気持ち悪いな」
 鈴巻は営業職には珍しく、かなり明るい茶色の髪をつんつん立たせていて、目が狐のように鋭く、顔をしかめたりするとちょっと危ない職業の人みたいな雰囲気で怖いのだが、今日ばかりは光幸には怖くもなんともなかった。にへっとまた笑ってしまいながら頭をかく。
「ええ……今日の夜、じゃなかった、ええと、今度の週末のごはん、なにを作ろうかなあと思っていたら幸せになっちゃって」
「おまえ、料理できるんだっけ。好きなの?」
「今まではやむにやまれず作っていたので、あまり好きだと思ったことなかったんですけど、楽しいって気づいたら好きになりました。一昨日気づいたんですけど」
「そりゃまた急だな。なんだよ、彼女でもできたのかよ」
 からかうように笑って鈴巻は到着したエレベーターに乗り込む。光幸はデータの入った紙袋を持ち直して後に続いた。
「彼女ができたんではないんですが、でも、楽しくって」
 そう言って光幸が笑うと、鈴巻は若干気持ち悪そうに顔をしかめたものの、「まあよかったんじゃん、楽しいなら」と言ってくれた。光幸はほうっと溜め息をつく。
「料理ができたり、家事全般ができたり、そういうのって悪くはないけど特に役に立たないなあって思ってたんですけど、人生なにごとも経験ですね」
「いや、家事全般ができるのは普通にメリットだろが。女にもてるぞ」
「だって、今までそれでもてたことありませんよ?」
「そりゃおまえ、もてない原因が別にあるってことだろ」
 首を傾げた光幸に、鈴巻は人の悪い笑い方をした。「あれだ、新知の場合は、『光幸くんていい人なんだけど……』とか言われて振られるパターンだろ」
「あ、それよくありました。先輩よくわかりますね」
「おまえそういう感じだもん」
 喉を鳴らして笑って、鈴巻は颯爽とエレベーターを下りていく。細身だがぐっと肩をはった歩き方は堂々としていて、やっぱりその筋の職業の人めいていたが、鈴巻は取引先からは仕事が丁寧だと信頼があつい。見習いたいなあと常々思っている光幸は、急いで彼を追いかけながら口を開いた。
「俺、仕事も頑張ります」
「なんだよ急に」
「はい、先輩のように自信に溢れたかっこいい男になりたいです」
「――お、おう。照れるな、そう褒められると」
 面食らったように鈴巻は口ごもり、それから思い直したようにばん、と光幸の背中を叩いた。「ま、がんばれよ」
「はい、ありがとうございます!」
 そう、頑張るのだ。やっとどうにか恋人っぽい立場になれたのだから、これからは鳴に呆れた顔をされないように、信頼を裏切らないように、不安な気持ちにさせたりしないように――頑張らなければ、いけない。


 二時間の残業を終えていそいそと会社を出た光幸は、そのまま大好きな想い人の家に向かった。東京郊外の静かな住宅地にあるその家の呼び鈴を押すと、ややあってドアが開き、光幸の大好きな人――笹中鳴が顔を出した。
「……なんで来てんのおまえ」
 びっくりと呆れたのを混ぜたような声でぽかんと呟いた鳴は、それからほわっと目元を染めて、顔を背けた。
「しゅ、週末また来てもいいとは言ったけど、今日来てもいいとは言ってないぞ」
「そうなんですけど、借りてた漫画、お返ししたいなと思って」
 わあ鳴さん可愛いなあ、と思いながら、光幸は用意してきた口実を言った。これでも昨日一日は我慢したのだ。紙袋に入れた漫画五冊を鳴に向かって差し出す。
「どんなお話か気になってすぐ読んじゃいました。少女漫画って面白いですね。ストーリーがちゃんとしてて、わかりやすくって、主人公が街で助けてもらうところとかどきどきしちゃいました」
「…………もう読んだのかよ」
 鳴はまた呆れたような声でそう言ったけれど、さっきよりも少し声がやわらいでいた。ドアを大きく開けなおして、横目で光幸を一瞥する。
「ちょうどお茶淹れようと思ってたから、飲んでいけば?」
「いいんですか?」
 玄関先で一目見て、少し話ができるだけでいいと思っていた光幸は、本当にびっくりして聞き返した。鳴は背中を向けて素っ気ない声を出す。
「だから、ちょうど、たまたま、お茶淹れようと思ってたから。二人分も三人分も手間かからないから、ついでだから……」
「ありがとうございます」
 少し強張った背中を見ると自然と笑みがこぼれた。ああ抱きしめたいなあと光幸は思う。抱きしめて、好きですと言って、そっとキスしたい。
 キスは駄目かな駄目だろうな、と思いながら鳴について家にあがると、鳴は振り向かないまま廊下の先を指した。
「部屋で待ってろ」
「――はい」
 光幸は頷いて、鳴さんがこっちを見ていなくてよかったと思う。絶対今、しまりのない顔をしている。
 きりっとしなければ、と思いながら言われたとおり鳴の部屋で正座して待っていると、五分ほどで鳴がお盆を持ってやってきた。ガラスのテーブルにいい匂いのする紅茶を並べてくれながら、「漫画、ほんとに五巻とも読んだ?」と聞いてくる。
「俺は昨日休みだったけど、おまえ、仕事だっただろ」
「はい、夜に読みました。読み始めたらとまらなくって」
 全然自分のほうを見てくれない鳴はちょっとだけ残念だったが、やんわりと巻き毛のかかった額のかたちのよさや、うっすら赤い頬を見るだけでも楽しかった。光幸は紅茶に手を伸ばして「いただきます」と口をつけた。鳴はちらりとだけ光幸を見て、またすぐ顔を逸らしてしまう。そわそわしたように耳に触れ、紅茶を飲み、もう一度耳に触れて、
「……つ、続きも読む?」
 テーブルの上でぎゅっと手を握った仕草も、せいいっぱい何気ない調子を保とうとした声さえ可愛く思えて、光幸は身悶えしたくなった。
「続きももちろん、貸してください」
 ふらふらとそう言いながら、光幸は我慢できずに鳴のほうににじり寄った。怒られるかなと思いつつ、そっと肩に触れて、後ろから抱きしめる。鳴はずっと身体を強張らせていたけれど、声に出して「駄目だ」とは言わなかった。
 鳴の身体のあたたかさにうっとりして、光幸はやわらかい髪に頬をつけた。
「借りたら、またすぐ読んじゃうと思うので。――明日も、来てもいいですか?」
「……っ」
 鳴の首筋がさあっと桃色に染まる。耳朶が美味しそうに色づいて、その耳殻の付け根からうなじを見せつけるみたいに鳴は俯いた。
「あ――明日は、駄目だ」
「明日は、駄目ですか。じゃあ、明後日は?」
 やっぱり俺は我慢強くないなあと思って、光幸はおどかさないようにできるだけ静かに唇を耳元に寄せた。鳴が逃げてしまわないように、ほんのかるくだけ唇で触れると、びくっと震えた鳴はいっそう俯いてしまう。
「明後日は、木曜日だろ」
「そうですね。木曜日ですけど」
「……一日待ったら、もう週末だろ」
 消え入りそうにちいさな声で鳴が呟く。光幸は一日待ってもまだ金曜日ですけど、と言いそうになって口をつぐんだ。
 金曜日。の、夜からを、週末だととらえる考え方も、まあわかる。
 でも。
「ええと、鳴さん土曜日もお仕事ですよね?」
「――――でもおまえは休みだろ」
 呟いて、鳴は身じろぎした。なんだか逃げられてしまいそうな気配に光幸は慌てて抱きしめなおして、聞いた。
「じゃあ、金曜日の夜だったらいいですか?」
「……………………さっきからそう言ってるだろ馬鹿」
「ごめんなさい」
 怒ったような、照れかくしの声が可愛い。光幸はさっきよりも熱い鳴の身体をきゅっと抱き寄せて微笑した。
「じゃあ、金曜日は、晩ご飯作りますね。リクエストがあったら言ってください」
「いいよべつに。仕事のあとだと大変だろ」
「大丈夫です、体力なら自信ありますし、それに」
 自分の顔が笑っているのがわかる。嬉しくて、どうしても口角が持ち上がって、きっととてもだらしがない顔だけど――でも今は鳴に振り向いてほしいと光幸は思う。振り向いて、綺麗な瞳を見つめて、キスをしたい。
「……それに、鳴さんや先生においしいって食べてもらえたら、疲れなんか吹き飛んで元気百倍ですよ、きっと」
「――百倍は嫌だ」
 抱きしめている光幸の腕に、鳴がやっと触れた。触れながらまた俯いて、独り言のように呟く。
「ご飯とかは、どっちでもいいけど」
 ためらうような、もの慣れない声。
「…………また、読んだ感想が聞きたい。おもしろかったところとか、どきどきしたところとか」
 そこまで言ってから早口に、「忙しくて読めなかったら無理にじゃなくていいから」とつけくわえられて、光幸は胸がしめつけられる感覚に息がとまりそうになる。
 それは、きゅんどころか、ぎゅうううん、ぐらいの強さで、胸も痛むし、いけないところまで反応してしまいそうな熱だった。
 親しく趣味の話をすることもずっとなかったという鳴のことを思うと、どうしていいかわからないくらい身体が熱くなる。
 話なんかいつでもするのに。いつでも、いくらでもいいのに。
 そろりと頬を押しつけて、光幸はとろけそうな気持ちで「じゃあ」と言った。
「せっかくの週末ですから、ゆっくりお話ししましょうね」
 本当は話だけじゃなくてキスしたりぎゅってしたり触ったりキスしたりキスしたりしたいけれど、そこは今までの評判にかけてできるだけ我慢しようと思いながら、光幸は週末の我慢のためにそうっと鳴の頬に触れた。
「鳴さん。キス、したいんですけど。……駄目ですか?」
 一瞬びくりとした鳴が怒ったような表情でゆっくり振り向いて、見上げてくる。もの言いたげな唇が動きかけて、けれど結局なにも言わないまま、瞼だけが伏せられた。
 光幸はふわっと笑う。
「ありがとうございます」
 心から囁いて、やめろと言われるまでは塞いでおくつもりで、あたたかく柔らかい彼の唇に自分の唇を押しつけた。


 





END



『嘘つきの恋は実らない』番外編です。
雑誌での終わりのシーンの、二日後。舞い上がっている光幸と、たぶんけっこう舞い上がっている鳴、ということで(笑)
バカップルが意外と好きでございます(笑)
ラブラブはいいとして、式場のキャンセル料大丈夫かいとお父さんあたりに聞いてほしい……


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