ハニースイートホーム






 三谷要の恋人である橘亜希人の携帯が鳴ったのは、ちょうど店を閉めて一実を迎えにいこうとしていたときだった。
 表示された電話番号に一瞬眉をひそめた橘は、「もしもし」と、最近あまり聞かなくなった素っ気ない声を出した。三谷は電話の内容を聞いてしまわないようにそっと背を向けて店の鍵を閉める。
「春屋」というこのパンケーキ屋を二人で切り盛りするようになって以来――もう少しうぬぼれた言い方を許してもらえるなら、橘が三谷の気持ちに応えてくれて以来、橘は前よりもずっと穏やかになった。今でも仕事に関しては冷静で厳しいが、それでも何事につけても素っ気ない、とりつくしまもないような喋り方はしなくなったと思う。三谷としては、あの凛々しいような口のきき方も好きだったから、後ろから聞こえる声は懐かしい気もしたが、呑気にそう思えるのは長くは続かなかった。
「――そうですか。わかりました」
 感情の窺えない平淡な声で橘はそう言った。
「時間は明日の? 十一時ですね。場所は? ――いや、自分で調べるからけっこうです。それじゃ」
 言うなり通話を切って、橘は溜め息をついた。三谷は振り返る。
「電話、誰からだったんですか?」
「母だ」
 ごく短く答えて、橘は一瞬迷うように視線をそらし、それから三谷を見上げてきた。
「母方の祖父の弟が亡くなったそうだ。明日は行かなきゃならない」
「それは、御愁傷様です。店のことは気にしなくていいですから……遠いですか?」
「いや、都内だ」
 言って、橘はもう一度溜め息をついた。用事が用事だからか気乗りのしなさそうな重たい表情に、三谷はそっと彼の背中に触れる。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ。それほど親しい親族でもなかった。ただ、亡くなるとしばらく家がごたつきそうだなと思っただけだ」
 まだ硬さの残る声で言ってから、橘は歩き出して自嘲するように笑った。「薄情だな、僕は」
「亜希人さんは薄情じゃないと思いますよ」
 ゆっくり告げて、三谷はもう一度橘の背中を撫でた。それに気づいていないように、橘は前を向いたまま呟く。
「家族が好きでも嫌いでもないんだから、薄情だろう。うちはみんな薄情なんだ。――誰も僕の顔を見たいわけでもないだろうに、事が事だから仕方ない、という声だった。僕だって行きたくはないからお互い様だが」
 皮肉げな声で言って、橘はそれから三谷をちらりと見た。
「好き嫌いで言ったら、おまえと一実のほうがよほど好きだ」
「……」
 くらっとして、三谷は思わず口元を押さえた。何も言えずに空を仰ぐと、自分の言ったことの意味を理解していないらしい橘は「何か見えるか?」などと言ってつられたみたいに上を見て、「三日月だな」と呟いた。
 困った人だなあと思いながら三谷は手を伸ばし、自然におろされた橘の手を握る。
 橘はふっと戸惑う表情を見せて、手を引きたそうにした。それでも、
「駅まで、つないでてください」
 やんわり三谷が言うと、橘はおとなしく力を抜いて、三谷が握りしめるのを自由にさせてくれた。
 困った人だけれど、だからこそ可愛い、と三谷は思う。可愛いと言うと橘は怒るけれど、でも、凛々しくてかっこいいのと同じくらい、橘は可愛い。
 そうっと握る手に力を込めて、三谷は顔を橘の耳元に寄せた。横顔はまだどこか硬い。やわらげてあげられたらいいのにと思いながら、三谷は思いをこめて静かに囁いた。
「明日は、気をつけて行ってきてくださいね。――家で、帰りを待ってますから」



 翌日、一人で店を回すのは少し大変だったが、これといった問題もなく一日を終えて、昨日と同じように店を閉めて外に出てから、三谷は携帯を確認した。
 未開封のメールが一通届いていて、橘からだった。
『すまない、少し遅くなる』
 それは予想できていた内容だったので、「大丈夫ですよ」と返信して、いつもは二人で迎えにいく児童施設まで一実を迎えに行く。一実と二人でスーパーに寄って帰宅してから、三谷は夕食を作った。
 支度の間はおとなしく絵を描いたりパズルを組み立てていた一実は、食事の席につくと顔を微妙に曇らせた。いただきますをして食べはじめたものの、我慢できなくなったように「パパ」と呼ぶ。
「たちばなさんまだ?」
「時間のかかる用事なんだよ、たぶん、一実が寝るまでには帰ってくるから」
「ほんとに? 帰ってくる?」
「帰ってくるよ」
 心配そうな一実が愛しくて、三谷は目を細めて頭を撫でてやった。
「今朝亜希人さんが言ってただろう。『一実、今日は晩ご飯はパパと二人だから、いい子にしてあげるんだぞ』って」
「ぼくいいこにしてるよね?」
「うん、してる。帰ってきたらきっと亜希人さんも褒めてくれるよ」
「パパもいいこにしててね? たちばなさんにおこられちゃう」
「パパもいい子にしてたよ、一日」
 苦笑すると、一実は思い出したようにテーブルの上を眺めまわした。橘がいない分、一実が寂しがるだろうと思って、メニューは一実の好きそうなものにした。ハンバーグと魚肉ソーセージのサラダ、ひじきのトマト煮、お味噌汁の具はわかめとじゃがいもだ。魚肉ソーセージのサラダとひじきのトマト煮は、三谷の亡くなった妻である春枝がよく作ってくれたものだ。手順やコツを覚えて以来、最初の頃のように料理で失敗することはほとんどなくなった。
 一実は少し考えてハンバーグを食べ、サラダを食べて、続けてひじきも食べた。
「……ぼく、このトマトのひじきすき」 
「パパも好きだよ。おいしいよな」
「――これなら、たちばなさんもおいしいって言うんじゃないかなあ」
 お箸をぎゅっと握りしめて、一実が三谷を見上げた。
「たちばなさん、いっつもパパのこと、おまえはハンバーグをこがしてたくせに、って言うけど、もうこがさないもんね?」
「そうだね」
 よく聞いているものだなと思いながら三谷は笑って頷いた。一実はひじきをまた食べて、うん、と大人びた仕草で頷いた。
「さいきんずっとたちばなさんがごはんつくってくれてたけど、こんどはパパがつくってあげるといいとおもうの。そしたら、たちばなさんも、おでかけしてもはやくかえってくるよ」
「――亜希人さんが遅いの、パパのせいだと思ってる?」
「だって、ぼくはじどうかんであそんでても、夕方になるとはやくかえりたいなあっておもうもん。パパとたちばなさんだいすきだから、はやくかえりたいなあっておもうんだもん」
 一実は真剣な目をして、足をぱたぱた揺らして、もどかしそうに喋る。
「だからね? たちばなさんにも、はやくかえりたいなあって、おもってもらうには、たちばなさんがぼくとパパのこと、だいすきじゃないとだめなの」
「そっか。そうだね」
「だからパパ、たちばなさんにおこられちゃだめなの」
「うん。気をつけるよ」
 おかしいのと、愛しいのとがないまぜになって、三谷の胸を刺した。こどもって不思議だなと思う。言葉だってつたないのに、気がつかないうちに大人が思うよりもずっと早く、深く、たくさんのことを感じて育っていくのだ。
「パパは、亜希人さんに嫌われてないと思うけど、安心してちゃだめってことだよな」
「そうだよ、こないだそうじきはちゃんとすみまでかけろっておこられてたよ」
「そうだったね。パパは頑張らないといけないな」
「一実もがんばるよ」
 生真面目に一実は三谷に向かって頷いて見せ、三谷は箸をおいて手を差し出した。
「じゃあ、指切りしとこうか。お互い、亜希人さんに嫌われないように頑張る約束」
「いいよー」
 幼稚園で指切りげんまんを覚えたばかりの一実は、いそいそと指を絡めてきた。小さく頼りない、けれど熱い指がぎゅっと絡んで、興奮して高い声が耳をくすぐる。
「ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーますっ」
 ゆびきった、は二人で言って下に手を振ると、一実は満足そうに笑った。
「ごはんたべたら、一実ひとりでおふろ入ってくるね」
「すごいな。入れる?」
「よゆうだよー」
 得意そうに顎を上げる仕草がちょっと橘にも似ている気がして、三谷はいっそう目を細めた。
 はやく橘が帰ってくるといい。帰ってきて一実がはしゃいで、自分たちをちょっと困らせて眠ったら、話をしよう。一実があなたを待ってましたよ、と。それから、パパも嫌われないようにしてねって約束させられたんですと報告したい。
 だから努力が足りなかったら言ってくださいねと言って、キスをして。
 きっと照れて怒ったみたいな声を出すだろう橘を抱きしめて、嫌いになんてなってないぞとぶっきらぼうに言われたい。言いながらたぶん彼は少しだけぎこちない手つきで三谷の頭を抱きしめてくれるに違いなく、その感触を思い描くだけで幸せな気持ちになる。
 抱きしめられたら、言おう。
 俺たちじゃあなたの家族にはなれませんか、と。
 薄情でも冷たくもないあなたを、こうやって待っているから、俺たちのことを家族だと思ってくれませんか、と――言って、抱きしめ返したい。
 あの人が寂しい顔をしないように。自嘲するみたいな声を出さずにすむように。
 三谷は最後のハンバーグを口に入れて、まだ食事を続けるちいさな息子に目を向けた。
「でもさ、一実」
「なあに?」
「食事って絶対、パパと一実の二人より、亜希人さんもいて三人のほうがおいしいし、亜希人さんが作ってくれたほうがおいしいなあって、思わない?」
「……そうかなあ?」
「一人で食べるより二人のほうがいいし、二人より三人のほうがいいなって、パパは思うんだ」
「そっかあ。一人は、なんかいやだもんね」
「な。それから、やっぱり亜希人さんがごはん作ってくれたほうが、パパはおいしい気がする」
「一実パパのごはんもすき」
「ありがとう。でもパパは、好きな人に作ってもらったほうが、嬉しい気持ちがする分好きだからさ。ごはん作ってくれるってことは、亜希人さんがパパと一実のことを考えてくれてるってことだと思うんだ。もちろん亜希人さんにも、俺が作ってあげて、家族だなあって味わってもらうのはいいなと思うけど」
 最後のほうは独り言みたいになりかけた三谷の台詞に、一実が困ったみたいに瞬きした。
「? なあに? よくわかんない」
「うん。だからね。亜希人さんが帰ってきたら、一実、明日はたちばなさんのつくったごはんが食べたいよー、って言って?」
「いいよーわかった」
 素直に頷く一実にありがとうと返して、三谷は時計をちらりと見た。午後八時半。たぶん九時をまわるころには、橘も帰ってくるだろう。
 キスして恋人の時間を満喫するのは後にゆっくりとっておいて。
 まずは一実も一緒に、亜希人さんには、ここが自分のいる「家」だと思ってもらいたい。
 早く帰ってきてくれればいいのに、と、そわそわするような楽しみなような気分で考えたとき、玄関のドアの開く音がした。予想よりもずいぶん早い。三谷と一実は顔を見あわせて、一実は箸を放り出すようにして椅子を下りていく。
 咎めはせずに見送って、三谷は聞き慣れたやわらかい声が「ただいま一実」と言うのを聞きながら、ちいさく微笑んで立ち上がった。
 





END



『はちみつハニー』番外編です。
短いお話というとどうしても甘め甘めで考えてしまうんですが(笑)
ちょっとでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
今さら気がついたけどキスもしてませんね……。


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