顧問官閣下の睦言
(「恋獄の椿姫」サイン本お礼SS)








 揺り動かされたような気がしてはっと目が覚めると、寝台はまだぼんやりと暗かった。まだ夜明け頃だろうか、と翡翠は思ったが、昨晩同じ寝台で眠ったはずのジュリアスの姿はない。なにも身につけないまま、すっぽりと抱きしめられるようにして眠ったはずなのに、ジュリアスが起きたのに少しも気づけなかったようだ。
 目は冴えているが、身体は怠かった。下腹部はまだなにか差し込まれたように熱っぽく、喉は乾いて張りつきそうだ。
 昨日はまだ日も高いうちから――というか昼前から組み敷かれて、幾度となく追い上げられて、食事は膝に抱かれたまま食べた。『休日』という名目の、蜜に浸されたような時間は濃密すぎて、外が暗くなる頃には翡翠は半ば意識が飛んでいたくらいだ。ぐったりした身体を抱きしめられて眠りに落ちたのはまだ早い時間だったはずだ。
 だから夜明けに目覚めてもおかしくはないが……ジュリアスがいない。
 今は何時なんだろう、と思いながら違和感を訴える腰をかばうように起き上がり、寝台を覆う布をめくると、すぐ近くの窓から薄灰色の雲と、わずかだけ青空が見えた。ゆらり、と床が――船が揺れる。目が覚めたのは船の揺れのせいらしい。
 曇っているからさほど明るくないだけで、たぶんもう朝も遅い。翡翠は一人赤面して、これもいつのまにか綺麗に清められている身体を隠すように、側にあったバスローブを巻きつけた。
 まるで見ていたかのように、寝室のドアが開く。
「おはようございます。お水をお持ちしました」
「……おはようございます」
 耶斑の屋敷にもいた執事がトレイに載せた水差しと洋杯を、寝台脇のテーブルに並べてくれる。あの、と翡翠が口ごもると、初老の彼は口の端に穏やかな笑みを浮かべた。
「ジュリアス様なら執務室です。昨日お休みになった分も含めて、午後二時までには済ませてしまうと仰せでした」
「そう、ですか」
 丁寧な口調にいたたまれなさがこみ上げる。彼にはなにもかも知られているだろう、とわかってはいるが、いかにも後朝と言わんばかりの自分の格好が恥ずかしかった。
「すみません、寝坊して」
「いえ。翡翠様はお疲れのはずだから、自然に起きられるまでそのまま寝かせておくようにとお申し付けでしたので」
 今度はかっと頬が熱くなった。そういえば、昨日着せられて、寝台の上で脱がされたあの桃色の服もどこにもない。着たまま幾度も極めさせられたから、汚れていたはずだった。
 翡翠は身を縮めるようにして俯いた。執事は淡々と水を入れた洋杯を翡翠に手渡して、「お食事は召し上がりますか」と訊いてくる。
「ただいま十時を過ぎたところですので。昼はジュリアス様がお戻りになった後でご一緒されるおつもりのようでしたから、軽めのものをご用意いたします」
「お……お願い、します」
 恥ずかしさで顔が上げられない。洋杯を握りしめたままいっそう俯くと、執事はいたわるように「翡翠様」と呼んだ。
「どうぞ顔をお上げください。このようなことを申し上げても、翡翠様は嬉しくはお思いにならないかもしれませんが、わたくしは翡翠様には感謝したい気持ちでおります」
「感謝?」
 眉をひそめられることはあっても、感謝されることは絶対にない気がしたから、翡翠は思わず視線を上げた。目があうと執事は優しい表情でしっかり頷いた。
「ジュリアス様にお仕えして以来、ジュリアス様が『休日』を取られるなど昨日が初めてでございました」
「――そうなんですか」
「仕立て屋が来ておりましたあいだも随分と楽しそうにしていらっしゃいましたし、今朝もとても――落ち着いて、穏やかにしていらっしゃいまして、わたくしはほっといたしました。主の幸福はわたくしどもにとっても幸福でございますから」
 にっこりして、執事は丁寧に頭を下げた。
「それも翡翠様のおかげでございます。どうぞ気兼ねなくお過ごしください」
「いえ……あの……」
 気兼ねなくと言われても、とは思ったが、結局翡翠は小さく礼を言った。執事は「お食事はすぐにお持ちいたします」と告げて踵を返し、ドアが静かに閉められてから、ようやく、息をつく。
 あんなふうに言われて嬉しくはあるけれど、やはり恥ずかしい。胸の奥がむずむずするような落ち着かない感覚で、翡翠は水を飲んでまたため息をついた。頬はまだ熱い。せめてあまり声をあげないように今度からは気をつけよう、と考えて、それからはっとして寝台を降りた。いつまでもこの格好ではいられない。
 急いで用意されていた服――ごく普通の、シャツとズボンを身につけると、だいぶ気持ちがしゃんとする。水で顔を洗い、乱れていた髪を整えて寝室を出ると、テーブルに執事が食事を並べてくれていた。
 促されて椅子に座り、湯気の立つ卵料理と果物、木の実を散らした砂糖がけのパンを見ると急に空腹だったことに気づく。雑な動作にならないように気をつけつつ、早速口に運ぶと、紅茶を注いだ執事が小さなカードを手元に置いた。
「お目覚めになったとお伝えしましたら、こちらを預かりました」
「――ジュリアス様から?」
 なんだろう、と不思議に思い、翡翠は紅茶を片手に無造作にそれをひらいた。署名もない短い文章。
『おはよう』
 色気もなにもない、いっそそっけないその文字が、間をおいてじわりと沁みてきて、胸が痛くなった。ジュリアスはどんな顔をして、たったこれだけをしたためたんだろう。ただの挨拶なのに、睦言のように翡翠の胸を高鳴らせる一言。
 くすぐったい甘やかさに、翡翠はごまかすように紅茶を飲み込んだ。食事が終わったら執務室を覗いてみよう。邪魔をする気はないけれど、カードの返事を直接――あの灰色の目を見つめて、おはよう、と言いたい気がした。






END



書店特典だった「閣下と椿姫の休日」の翌日談です。
分量の都合でカットしたのですが、「〜休日」ではあの場に執事が控えている設定でした。
最後に執事がドアを閉めてから、翡翠が「仕方ない……」とキスに応じる感じで書いたらものすごくはみ出ていたので、執事さんをカットしたのでした。
なので、今回は執事さんに喋っていただきました。
ちょっとでも楽しんでいただけたら幸いです。


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