ずるいのはどっち?
(「つないであなたのものにして」お礼おまけSS)












 夢みたいだった、なんてずっと陳腐だと思っていた。現実だと思えないとか、夢を見ていただけかもしれないとか、実際あったことをそんなふうに考えるだなんてお花畑にでも住んでいるのかと軽蔑さえしていた。現実にあったことはあったことで、なかったことはなかったこと。それ以上でも以下でもない。
 だから、あの夜を「夢のよう」だったとは、香矢は思わない。
 思わないのだが、時折、思い込みや錯覚だったらどうしよう、と不安がよぎる感覚だけは、悲しいかな理解できるようになってしまった。
(不安がるとか、柄じゃないのに)
 リードしたり、コントロールしたりするのはいつも香矢のほうだった。少なくとも香矢自身の感情や感覚は、制御できないようなことにはならなかった。
 自分を変えてしまったのは怺嗣なのだから、そろそろいい加減、キスくらいはしてくれてもいいはずだ。
 香矢は自分にそう言い聞かせて、コーヒーのマグカップを載せたトレイを書斎まで運んだ。
「怺嗣さん、コーヒー淹れたよ」
「ああ、ありがとう」
 ノックして入ると机の前で叔父の怺嗣が振り向いて、眼鏡の奥で目を細めた。トレイの上で彼のほうに向けられた取っ手にかかった指は節が立って長くて、中指にはペンだこがあって、これを舐めたのにな、と香矢は思う。「繋いでおけばいいんですね?」と、毒のように甘い声で囁かれたのに。
「いい香りでほっとしますね」
 穏やかな表情でコーヒーに口をつける怺嗣には、以前と変わったところがなにもない。夜ぱったりと出かけなくなった香矢に嬉しそうにはするものの、触れることもキスすることも、もちろんその先もなくて、誰から見てもただ同居している叔父と甥というだけの関係でしかないだろう。
 三日もこの状態ってひどくないだろうか、と思いながら、香矢はコーヒーを飲む怺嗣を見下ろした。椅子に座った彼を斜め上から見るのはちょっと好きだ。
「ねえ」
「はい?」
 黒目がちの瞳で見上げられるのも、低い声の語尾があがるのも好きだ。
 こっちはこんなに好きなんですけど、と思いながら香矢が斜め上から顔を近づけると、怺嗣は眉をひそめて顎を引いた。
「こら」
 短くたしなめられ、香矢は怺嗣を睨んだ。余裕の窺える怺嗣の表情が憎たらしい。
「なんで?」
「僕はまだ仕事中です」
「キスだけだよ。だけでいいから」
 声が自然と甘えたトーンになって、こんなふうになるなんて、と香矢は思った。気を引きたくて媚びを売る猫みたいになる日がこようとは思いもしなかった。
 でも、怺嗣のために媚びるなら全然いい。
「こないだは、怺嗣さんからしてくれたよね」
 わざと思い出させるように囁きながら、怺嗣の肩に手を置いて、そっと彼の膝に乗り上げる。横向きに座って怺嗣の顔を覗き込み、ちょっとだけ、と重ねて言うと、怺嗣は仕方なさそうにため息をついた。
「仕事中だって言ったでしょう。もうちょっとで終わりますから」
「終わったらキスする?」
「まだ三日しか経ってませんよ」
「三日も、経ったんだけど」
 ちっとも譲る気配のない怺嗣に苛ついて、真正面で思いきり不機嫌な顔を作ると、怺嗣はマグカップを机に置いた。
「香矢はわがままですね」
「わがままって、誰のせいだと思ってんの?」
 両思いだと確かめあって、身体もつなげて、約束も交わして。
 同じ家に帰ってきたら、普通、もう少しくらい空気が変わるとか、接し方が変わるとか、あってもいいはずだと香矢は思う。なのに怺嗣ときたら、まるで本当にあの夜がなかったかのように――香矢が望みすぎた挙げ句に見た夢だったかのように、一切なんの変化もないのだ。
「俺あなたの恋人じゃないの?」
 押し殺したような声で香矢が訊くと、怺嗣は探るように目を細めた。笑っていない、いっそ冷たいような眼差しで、彼は口元にやんわり笑みを浮かべる。
「香矢はわがままが上手ですね、と言ってるんです。今までも、いろんな人間にそんなふうにわがままを言ったのかな」
 すっと手が背中に添えられて、布越しだというのにぞくりと震えが走った。拘束されているわけでもないのに身じろぎもできなくなって、視線を絡ませたまま、香矢は掠れた声を押し出した。
「わがまま、なんて、普段は言わない」
「じゃあ、僕にだけですか? こんなふうに膝に乗って誘ったり、キスしようとしたり、おねだりしたり」
「怺嗣、さん、だけだよ」
 背中のてのひらが熱い。喉まで震えてまばたきもできずにいる香矢をじっと見据えながら、怺嗣はゆっくり言った。
「仕方ありませんね。僕だけにそんなふうにする、だなんて、喜ばせるのが上手なんですから――本当に、いい子すぎて悪い子だ」
 噛んで含めるような言い方につれて、てのひらが下へすべった。
「相手の望むわがままを言うだなんて、ずるい手口だと思いませんか?」
「……ず、るくない」
 シャツ越しに触れられる背骨のひとつひとつが、じんと痺れるような快感を訴える。息がはずみ、耐えきれず香矢が目を伏せると、怺嗣は顔を近づけた。
「んっ……ぅ、」
 吐息だけが掠めるのと大差ない、ごくかるい口づけに、香矢は喉を鳴らした。もっとしてほしくてひらいた唇がわなないて、香矢はそれを舐めた。
「怺嗣さん、もっとちゃんとして」
「駄目です」
 愛撫の手もとめた怺嗣はかるく香矢の腰を横に押した。「ほら、いい子だからどきなさい」
「もう一回してくれないとどけない」
 手を回したまま、もどかしく香矢が言い重ねると、怺嗣は唇の端を上げて意味深に微笑んだ。
「もう一回したら、きみはきっと立てなくなりますよ?」
「……っ」
 不意打ちの色めいた声にひくんと身体が震えてしまい、その隙に怺嗣は本当に香矢を押しのけた。眼鏡を直しながら、横目で香矢の顔を見る。
「そんな赤い頬をして、心細そうな顔をしないでください。これでも、最大限の自制をしてるんです」
「自制なんて、」
「香矢」
 自制なんてしないで、いらないんだから――そう言いかけた香矢を、怺嗣はきっぱり遮った。優しげな微笑みで見つめられ、香矢は溢れそうな文句を飲み込んだ。
 黙った香矢を、怺嗣は首を傾げてみせる。
「きみが休みなのはまだ二日も先でしょう? 僕が自制しなかったら、きみは翌朝仕事になんてとても行けませんよ」
「――っ」
 一晩離さない、とあからさまに匂わせる台詞が、怺嗣の欲などなさそうな表情のまま吐き出されると、どっと恥ずかしさがこみ上げた。そんな素振りもないくせに、と思いながら、香矢は赤いと指摘された頬を擦った。
「朝まで……し、したって、行けるよ。だってこの前だって」
「この前は、ちゃんと自制しました」
「……自制心、たいしたことないって言ったくせに」
「ええそうです」
 悔しくて言い返した香矢に、怺嗣はことさらにっこりした。
「だから、これ以上挑発しては駄目ですよ。明後日は休みなんですから――明日の夜まで、我慢させてください」
 ずきん、と身体の芯が痛いほど疼いて、香矢は目眩を覚えながら辛うじて頷いた。
 燃えそうに顔が熱い。否、全身が燃えてしまいそうだった。
(明日になったら――朝立てないぐらいしますよ、とか)
 そんなこと言うタイプには見えないくせにずるい。
 怺嗣はもう話は終わったとばかりに机の上のパソコンに向き直っていて、香矢はその背中のしばらく睨んでから、諦めてそこを離れた。
 掠めるようなキスと背中を撫でるのと、予告の言葉だけで萌してしまった下半身は疼くように熱っぽかったけれど、当然、一人で処理する気分にはなれなくて、明日まで待つのだと思うと泣きたくなる。でも、その泣きたい焦燥に似た感覚は、同時にとろけるように幸福で、香矢はキッチンまで戻って独りごちた。
「怺嗣さんのほうが、ずっとずるくて悪いじゃん」
 我慢させて、だなんて。
 我慢させられるのは、こっちのほうだ。
 






END



三日後後日談でした。
えろいお話も書きたいなーと思ったんですが、いろいろ考えたら長くなりそうだったので、あわよくば次回の同人誌に収録したいと思います。
間に合ったら……。
短いひねりのないSSですが、本編とあわせてお楽しみいただけたら嬉しいです!



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