蜜月の椿姫
(無料配布「豆ゆゆ」より再録/『恋獄の椿姫』おまけSS)





※文庫の書き下ろしのあとのお話です。文庫読了後のほうが楽しいと思います!



 最初の寄港地の芳港では、一泊することになっていた。数日ぶりの陸地に上がるため、翡翠がジュリアスに着せられたのは淡いグレーのスーツで、藍佳とリードも一緒に車に乗って向かったのはチョコレート屋だった。
 黒と白の洒脱な建物の、硝子の嵌めこまれたドアの前で車を降りると、制服姿のドアマンがドアを開け、中では年配の、店主と思しき男性が恭しく迎えてくれた。
「先日はお召し上がりいただき、ありがとうございました」
「私が食したわけではない。これの好物なんだ」
 今日も今日とて軍服姿のジュリアスに腰を引き寄せられ、翡翠はびくりとした。
 ふらついたのを悟られただろうか、と思う。昨晩、ジュリアスに取らされた体位は恥ずかしいだけではなく腰がかなりつらくて、今朝からどうにも歩き方がぎこちないのだった。
 それに、公の、それも普通の店でこういう扱いをされるとは思っていなかったから、かっと顔に朱が上る。だが、白髪の店主は驚いた様子も見せず、翡翠のほうを見て微笑んだ。
「耶斑の方でございますね。お召し上がりいただいたチェリーボンボンはお気に召しましたでしょうか」
「あ……はい。でも」
 なんで知っているのだろう、とジュリアスをつい仰ぎ見ると、ジュリアスは「ここから取り寄せた」と淡々と言った。
「あちらは当店の看板商品でございまして、顧問官閣下ご自身のところにお届けしたのは初めてでしたので、たいへん嬉しく思っております。あなた様のためでございましたか……」
「余計なことはいい」
「これはこれは、失礼いたしました」
 好々爺、という形容がぴったりの店主は、ジュリアスが不機嫌な声を出しても動じなかった。身体ごと翡翠のほうに向き直り、穏やかな声で訊いてくる。
「チェリーボンボンの他にもいろいろな種類がございますから、お好みの味がございましたら、見繕ってご用意させていただきます」
 丁寧に言われ、翡翠は困って店内を見まわした。店の奥には硝子のケースが並び、中に宝石のようなチョコレートがいくつも並んでいる。馴染みのない翡翠には選びようもなかった。
「すみません、食べたことがあるのはあのチェリーボンボンだけで……あの、弟は甘いものが好きなので」
 甘いのをください、と言いそうになり、チョコレートはたいてい甘いよなと思って翡翠は口を噤んだ。不慣れな状況に緊張で汗が浮かんできそうだった。こういう店には来たことなどないし、どうしていいかわからない。
 その上、腰はジュリアスに抱かれたままで、ひどくいたたまれなかった。
 困って視線を落とすと、店主は穏やかに「では」と言った。
「チェリーボンボンと、檸檬や橙の入った苦めの、お酒の効いたものをご用意します。試しに召し上がってみてください」
「……あ、りがとうございます。あの弟には酒の入っていないのを」
「ええ、もちろんでございますよ。そちらが弟君でございますね。ミルクの多い、ナッツの香りのものなどご用意いたしましょう」
 丁寧で優しい口調に、もう一度「ありがとうございます」と呟くと、ぐい、と腰を引かれた。ついで髪にあたたかく唇が触れ、ずきん、と心臓が波打つ。
「ジュ……っ、」
 身をよじって逃げかけて、逆らうのはまずいだろうか、と声を呑む。ぎこちなく固まった翡翠を悠々と抱きながら、ジュリアスが鷹揚に命じた。
「私は翡翠と食べるから、誰か一人、藍佳とリードについて世話してやってくれ」
「畏まりました、では顧問官閣下はこちらへ」
 奥のテーブルのある一角に誘われ、重厚な花柄の生地が張られた長椅子に、翡翠はジュリアスに抱かれたまま座った。
 揃いの白いスーツを着た店員が二人、翡翠とジュリアスの前にチョコレートを並べ、姿勢良く立った店主が説明してくれる。
「左から、檸檬の皮にミルクチョコレートをかけたシトリン、シェリーを効かせた林檎の蜜煮入りのチョコレート、猫の舌のかたちのビターチョコレート、チェリーボンボン、橙を使ったオランジュ、火酒入りのチョコレート、木苺とブランデーのチョコレートでございます」
「こ、んなに食べられない」
 ひそ、とジュリアスに向かって囁くと、ジュリアスは目の端をかすかに緩ませた。
「気になったものだけ食べてみればいい。かじって気に入らなければやめればいいし、気に入れば全部買ってやる」
「そんなこと言われても――こんなふうにもてなされるの初めてだし、それにもったいないよ」
 出されて食べないなんて、と思ったが、ジュリアスはおもむろに手を伸ばし、四角いかたちの――翡翠はもうそれがなんと説明されたものだったか覚えていなかった――チョコレートをつまんで、翡翠の口元にあてがった。
「いいから食べなさい。なにも口にしないほうが店の者が可哀想だ」
「……」
 ここは外なのに、と思いながらも、翡翠はわずかに唇をひらいた。隙間から押し込まれたチョコレートは洋酒の香りがして、噛むと林檎の味がした。甘さと苦さが混じりあい、前に食べたチェリーボンボンと同じくらいおいしかった。
「どうだ?」
「……う、ん。おいしい」
「そうか」
 素直に頷いた翡翠に、ジュリアスはほんの微かに微笑んだ。冷たい美貌が華やいで、ああ嬉しそうだな、と翡翠は見とれてしまう。ジュリアスはほのかな笑みを浮かべたまま顔を近づけた。
「――、っ」
 かるく唇を吸われ、ざっと皮膚が粟立つ。ぎょっとして身を引きかけると背中を引き寄せられ、今度は舌を差し込まれた。
(嘘……ちょっと、……人、が見てる、のに)
 すぐ近くで、店主がにこにこしながら紅茶を淹れている。彼が白い綺麗なティーカップに明るい色の紅茶を丁寧に注ぐあいだ、ジュリアスはキスをやめなかった。
「……っ、ふ……、」
 ちゅるっと音をたてて唾液を啜られ、あがりそうになった声を翡翠はかろうじて飲み込んだ。恥ずかしくてとても顔が上げられず、俯いて口元を拭う。店主が丁寧に腰を折って頭を下げた。
「紅茶はポットにたっぷりご用意しましたので、ごゆっくりお試しください。お決まりになったらお呼びくださいませ」
 そのまますっと離れていかれ、きっとジュリアスに気を遣ったのだろうな、と翡翠は思った。それとも、こういう店はこの接客が普通なのだろうか。わからないが、少なくともジュリアスの振る舞いが普通だとは思えない。
「こういうところで、口づけをするのは、……よくないと思う」
 舐められた唇が熱い。それを意識したくなくて並んだチョコレートをひとつ口に入れると、ジュリアスは翡翠を眺めてまた微笑した。
「誰も咎めはしないさ」
「そういう問題じゃ……それに藍佳だっているんだし」
「弟はどうせチョコレートとリードしか見てないぞ」
 そんなことはない、と思って翡翠は首をめぐらせた。長方形をした店の反対側のほうにいる藍佳は、一人がけの椅子に座ってどうやらチョコレートが気に入ったようで、隣に立つリードを嬉しげに見上げていた。リードが慣れた手つきでその髪を撫でるのを見てしまい、翡翠は思いきり眉間に皺を寄せた。
「リードが……触ってる」
「弟もリードに懐いているんだから問題はあるまい」
「あるよ! まだ十四なんだしなんだよあんな、あんな親しげに」
 照れたように、嬉しそうにしている藍佳に拳を握りしめると、ジュリアスは面倒そうにため息をついた。
「弟を見てごちゃごちゃ考える暇があるならこっちを見ろ」
「でも」
「でも、じゃない。余所見をするなら並んでるチョコレートは全部買うぞ」
「え? こんなに食べられ、……んぅっ」
 やや乱暴に腕を掴まれ、口づけられて、翡翠は目を見ひらいた。ジュリアスは至近距離から咎めるような眼差しを向けてきて、深いところまで舌を差し込んでくる。
「んっ……ぅ……ん、ふ……ッ」
 上顎をしつこく舐めさすられて、ぞくぞくと腰骨からうなじまで快感が駆け上がる。昨日もしたのに、まるでずっと触られていなかったかのように、身体が勝手に快楽を追おうとしているようだった。震えてしまう翡翠の身体をジュリアスは強く抱き寄せて、その腕にすっかり囲われると逆らいようもなく力が抜けていく。
 さらに数秒、ねっとりとキスを続けられ、解放されたときにはすっかり息が上がっていた。
「ふ、ぁ……ぅ、……っ、は、あ、……あ、」
「いい顔になった。翡翠はキスが好きだな」
「べつに、好きじゃな……い」
「そうか。ではこれから確かめてやる」
「これからって――」
 確かこのあとは街を見て歩いて、そのあとは食事をするのだと、今朝聞いていたは。まさかここでとかじゃないよな、と引き攣りそうになった翡翠の髪を、ジュリアスはどことなく楽しげに梳いた。
「船が出るのは明日の朝だ。これからすぐホテルに向かえば、チョコレートもすぐに食べられるぞ」
「っ、でも街を見るって――」
「街が見たければホテルの窓から見ればいい」
「ちょ、あ……っ」
 強引に決めつけてジュリアスは翡翠の肩を抱いたまま片手を上げた。
「お決まりでしょうか」
「出してくれたものは全て一箱ずつ用意してくれ」
「それは、誠にありがとうございます。すぐにご用意いたします」
 本当に嬉しそうに店主が頭を下げた。彼は翡翠にもにこりと笑いかけて踵を返し、翡翠はますます赤くなった。
 絶対に口づけられているところも見られたはずだ。なのに何事もなかったように接されるのが却って恥ずかしい。
 俯いた顎を、ジュリアスが掬い上げてまた口づけてきた。
(なんで……こんな、いっぱい……)
 最初だけ荒々しく、あとはゆっくりと楽しむように吸われて、翡翠は困ってジュリアスの軍服の袖を握った。きちんと釦をとめた翡翠の喉元に、ジュリアスの指が探るように触れてくる。明らかに淫靡な行為を窺わせる、妖しい撫で方だった。
「あっ……ま、まだ昼、なのに……、こんな、」
 ひく、と自分の身体の奥が蠢くのを感じて、翡翠は首を横に振った。耳も啄むようにして、ジュリアスは低く囁く。
「毎日のように触れられるのは不満か?」
「不満……というか、身体、もたない、って……こ、こんな」
「昨日の夜は二回しかいかなかっただろう?」
「でも、腰、……あ、ん、……つらい、し」
 つう、と耳の裏を撫でられて呼吸が弾む。キスから逃れようと身じろぎながら翡翠はジュリアスを見上げた。ジュリアスは「なるほど」と思案げな表情になる。
「膝が耳の横につくくらい身体を曲げさせるのは確かに腰に負担が大きいだろう。ならば、今日は別の体位にしよう。善処する」
「や、そういうことじゃない……っ、ん、ふぅ……っ」
「ホテルまでの車の中もキスしていてやるから」
 キスを繰り返され、背骨の下のほうから尻の丸みを撫でられて、翡翠は走る快感に目を閉じた。熱っぽく舌が絡みあい、じんと喉から胸が疼く。
「な、……なんで、こんなにするんだよ」
 戸惑いまじりに呟くと、ジュリアスは「決まっているだろう」と顔をしかめた。
「おまえを不安にさせたくないんだ」
 唇をかるく噛んで、ジュリアスはそう囁いた。冴え冴えとした灰色の瞳にまともに見つめられ、甘苦しく胸が痛む。
 ――つまり、触れあわなかった二か月を埋めよう、という心遣いなのだろうか。
 期待とも戸惑いともつかない気分で見つめ返すと、ジュリアスは額と鼻先を触れあわせ、うなじから髪を優しくかき上げた。前はこんな触り方はしなかったのに、と思うと、翡翠はいっそう苦しいような儚い気持ちになった。
(……そんな言い方されたら、拒めないだろ……)
 力の抜けてしまった身体を、ジュリアスは当然のように引き寄せる。胸にもたれるように抱かれて、翡翠は質の悪い熱を帯びてしまった唇をぬぐった。
 おまたせいたしました、と見計らったようなタイミングで店主が戻ってきたが、並んだ芸術品のようなチョコレートを見ても、心は半分以上、先ほどのジュリアスの声に占められていて、高鳴った心臓はなかなか元に戻らなかった。






END



彼氏ができて浮かれる閣下をお楽しみいただければ幸いです!
書き下ろしだけではラブラブいちゃいちゃが書き足りなかったのでまだまだ書きたいです。特に意味のない甘々。
本当は、続編が書けたら嬉しいんですけれども!



ご感想はこちらから(拍手フォーム)

※感想なしでも押せます。連続10回まで、感想は1回あたり80文字までです。