ピアノ弾きの恋
(「恋獄の椿姫」おまけSS)








 今日はあいにくの曇り空で、海は遠くのほうがぼんやりと霧がかかったように見えた。理央が初めて見る外海は暗い、藍色と灰色をまぜたような色で、甲板から海面を見下ろすと少しひやりとする。大きな鉄の塊の上とて、決して安全ではない、と底知れない色は告げているようだった。
 大きなものとか、確かなものなんてきっとないんだな、と理央は思う。信じていたもの、信じたいものも、崩れ去るときは一瞬だ。
 今でもそのことを思うと苦いけれど、理央はもう、なくしたものを悲しいとは思わなかった。仕方ない。そのかわり、あいた場所には別のなにかを持ってくればいい。なにもないなら、探せばいい。一番望むものは、もしかしたら手に入らないかもしれないけれど。
「理央」
 風に歯向かうように上を向いたとき、後ろから聞き慣れた声がして、理央は微笑んで振り返った。
「おはよう、翡翠」
「……おはよう」
 照れたように笑みを返して、翡翠は理央の隣に並んだ。今日は白いシャツに紺色ののカーディガンを羽織り、灰色のズボンを穿いていた。翡翠は洋装も似合う。喉元まできっちり釦をとめているが、すらりと伸びた首は華奢で長く、風で髪が弄ばれると覗くうなじはどきりとするような白さだった。
「今日は鳥、いないんだな……ふ」
 残念そうに呟いて、翡翠は欠伸を噛み殺した。うすく涙が滲んだのだろう、目元を拭って、灰色一色の空を見上げる横顔は眠そうだった。――否、眠そう、というより、気だるげと言うべきか。
「船旅で疲れてる?」
「え?」
「欠伸してた。疲れてるなら、中でお茶でも飲もうか」
「あ……いや。ちょっと、風に当たりたかったんだ。船は初めてだけど、大きいからかな、あんまり疲れた気はしない、けど」
 決まり悪げに呟く翡翠の頬がうっすら染まっていき、わかっていたこととはいえ、理央は複雑な気持ちになる。
 昨晩は舞踏会が催された。理央も来ていいとリードには言われたが、翡翠と顧問官が踊ると聞いて行くのをやめたのだった。きっと、踊って部屋に引き上げたあと、翡翠は顧問官に愛されたのだろう。あのときのように――あるいはもっと優しく愛撫されて、あの甘い、泣くような声をあげて。
「顔色はそんなに悪くないけど、やっぱり眠そうだよ」
 胸を焦がす想像と記憶を押しやるように、理央は笑みを浮かべてみせた。
「大きいって言っても船は船だから、外に出たくなる気持ちもわかるけど、寒いしね。風邪を引かせたら俺が顧問官に怒られそうだから、少ししたら中に戻って、サロンでお茶でも飲もう。――そういえば顧問官は?」
「仕事みたいだ。起きたらいなくて、執事さんが仕事だって――あ」
 ぱっ、と翡翠が赤くなった。失言に気づいたらしい。
「……いや、起きたらっていうのは、ベッドにってことじゃなくて、部屋に、いなくて」
「どっちでも変わらないよ。今さらじゃないか」
 俯いて早口になる翡翠がなんだか可愛くて、胸が痛かった。酒場で理央のピアノにあわせて歌っていた頃は、翡翠はこんな顔はしなかった。あの頃は張りつめたようなきつさが前面に出ていて、凛として美しかったけれど――今浮かべているのは、どちらかといえば子供の頃に見せていたような素直でわかりやすい表情だ。少しは楽になったのかなと理央は思う。きっと、大変だっただろう。急に幼い弟と二人きりになって、慣れない仕事をしていたのだ。それは耶斑では珍しくない苦労だったけれど。
「よかったね。顧問官とうまくやれてるみたいで」
 悔しいけどね、と心の中だけでつけくわえて笑うと、翡翠は恥ずかしそうに口元を押さえた。
「うまくいってるのか、よくわからないことも多いけど。――アルビオンに着いたらなにをしたらいいのかも、なにも聞いてないし」
「翡翠なら大丈夫だよ。心配しなくてもいいんじゃないかな」
「理央は――」
 翡翠は言いかけて口ごもる。なに、と促すと、翡翠は欄干に掴んだ手に力を込めた。
「理央には、反対されると思ってた。耶斑を出てアルビオンに行くなんて」
「俺ってそんなに頭が固そうかなあ」
「そういう意味じゃないよ。でも、こうやって理央も一緒に来ることになるなんて思ってなかったから」
「迷惑だった?」
 冗談めかした理央の口調に、翡翠は怒ったように顔をしかめた。
「そういう意味じゃない」
「ごめん。俺にも、いい機会だなと思ったんだ。翡翠も――新しい場所で心機一転できるって期待はあるだろう? それと同じだよ」
 理央は手を伸ばす。長いこと、自分の気持ちを見透かされそうで、滅多に翡翠に触れることはなかった。そのくせいつでも握りしめたいと思っていた白い手を欄干から引き離すと、冷えきった手が戸惑うように揺れた。
「理央?」
「やっぱり冷えてる。中に入ろう」
 ぐっと引いて、翡翠の身体を自分に近づけると、理央は階段のほうへ促すという口実で一度だけ、肩を抱いた。
(耶斑を捨ててもいいと思ったのは、きみのためだよ)
「翡翠、なにが飲みたい? 紅茶もいいけど、サロンの珈琲がすごくおいしいよ」
「本当? サロン、まだ入ってないんだ」
「他の人たちとも話せて楽しいよ。藍佳くんも、リードと一緒によく来てる」
 曇っていても明るい甲板から、船内へのドアを開けて入ると、一瞬暗さに目眩がする。それをやり過ごしてから、理央は名残惜しく手を離した。
 逃げもせず手を引かれていた翡翠が、振り返った理央に怪訝そうに首を傾げる。気位の高い猫のように整った顔なのに、表情だけが無防備で、理央は腹の奥で蠢く衝動に気づかないふりをした。
 かわりに、とっておきの穏やかな、余裕のある表情を作ってみせる。
「アルビオンに着くの、俺は楽しみにしているんだ」
「へえ、すごいな。そうなんだ」
「やってみたいこともあるし――こうなったらいいな、って思っていることもある」
「どんなこと?」
「それは、内緒だよ」
 悪戯っぽく笑って、せっかく顧問官もいないのだからと、理央は翡翠に顔を近づけた。廊下には誰もいないが、さも秘密だというように、耳元に口を寄せる。
「それにさ、翡翠だって、親しく相談できる相手がいたほうがいいだろう? 俺でよければ、顧問官と喧嘩しても相談に乗るよ」
「け……喧嘩って」
「愚痴も聞く。顧問官っていろいろ激しそうだしね」
「ばっ……な、なんだよそれ」
 翡翠がまた顔を赤くして理央を睨む。
「からかってるだろ、理央!」
「ごめんごめん。船旅にちょっと飽きてきてさ。退屈してたんだ」
「俺は退屈しのぎのおもちゃじゃないぞ」
 怒ったように言って理央を追い越し、サロンのあるほうへ歩き出してから、翡翠は思い直したように振り返った。
「でも、理央が元気でよかった」
「――翡翠」
「やりたいことがある、って言ったときの理央、凛々しかったぞ。おまえのそういうとこ、好きだよ俺」
 ふわりと、気を許した顔で翡翠は微笑んだ。きつい顔立ちがそうするとはっとするほどやわらいで、理央は胸の痛みにひそかに息をつく。綺麗だ。翡翠はいつも――理央の胸を、どんな音楽より激しく貫いてしまう。
「ありがとう翡翠。俺も翡翠が好きだよ」
 揶揄う仕草で髪に触れ、悪友同士のように笑みをかわして連れ立って歩き出しながら、好きだよ、と胸の中で繰り返す。
(きみが好きなんだ、翡翠)
 ずっと言えなくて、これからもきっと言えないけれど、それでも諦めずに傍にいたくて、だから僕はここにいるんだ。






END



文庫書き下ろしの、船の中での理央視点です。
サイトにアップしていたhtmlファイルを紛失したため、当時このコメント欄になにを書いたか覚えてないのですが、恋心を秘めて決して口にしない幼馴染み、ってすごくツボなんですよね……! 
サブキャラ視点という自己満足感あふれるSSですが、ちょっとでも楽しんでいただけたら幸いです。


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