午後7時半。
自分の部屋の押入れにある電話達の整頓をしていた。出入りが激しいので、小さい電話は引き出しBOXに収納し、大きな電話はカラーBOXに置いた。前は乱雑に押入れの棚に置いていただけだったので、これでどの電話が鳴ってもすぐに取り出せる。
…と思っていたら、早速電話が鳴った。電子音にしては綺麗な音質だ。確か、曲名は『トロイメライ』だったはず。押入れの中の電話を探したが見当たらない…。
「ウゥゥ〜…」
明鉄が後ろで唸っている事に気付き、振り返ってみた。鳴っていたのは、白い椅子の上に置いていたあの黒い携帯電話だった。明鉄はその携帯電話に向かって唸っている。
「おまえは横に座って待っていろ」
「クゥゥ〜ン…」
「大丈夫だから」
明鉄は渋々、椅子の右側に座った。座りながらも携帯電話をジーっと見つめている。
俺は携帯電話を持ち、椅子に座り、深呼吸をした。
仕事前はあまりやらない事だが、今回は別格なような気がしたので、気休め程度に自分を落ち着かせてみた。
ゆっくりと携帯電話を開いてみた。画面には番号の表示は何もない。着信を知らせるアニメーションが動き続けているだけだ。俺は意を決して通話ボタンを押した。
『…え?』
思わず声に出てしまった。
通話ボタンを押した直後、俺は暗闇の中に立っていた。暗闇は様々な色がうねるように混ざり続けている。ここはあの写真が写し出した世界のようだ。相手の意識の中に引きずり込まれたのは初めてだ。
自分がいる世界に気付いたせいか、右目がズキズキと痛み出した。意識の世界なのに痛みがあるなんて驚きだ。
〔誰だ〕
とても低い声が響いた。その声に反応した暗闇のうねりが一瞬止まったが、すぐに動き始めた。
〔僕の世界に何故入ってきた〕
どうやら、声の主は俺が勝手に入ってきたと思っているようだ。言葉の言い方から、俺と近い年代の男のように思える。
『おまえこそ誰だ』
〔…僕は僕だ〕
『まるで知っているような口ぶりだな。じゃあ、おまえの名前は何と言うんだ?』
〔名前…名前?…名前なんて必要ない〕
『名前は個を特定する言葉だ。その言葉がないおまえは、自分自身を否定している事になる』
〔…否定なんてしていない〕
『じゃあ、名前を教えてくれ』
〔……〕
これではっきりした。声の主は、否定する気持ちと受け入れたい気持ちが押し合いをしている状態なんだ。だから、この暗闇の世界は黒だけでなく、他の色も混ざり合っているんだろう。
『おまえは何故入ってきたのか、と言った。でも、俺はおまえに呼ばれてここに来たんだ。…何かをしてほしくて呼んだんだろ』
〔…違う〕
『っ痛…』
声の主のその言葉に、暗闇に混ざる色が一色減った。それに反応してか、俺の右目が一瞬だけ鋭い痛みを放った。それでも俺は否定しなければならない。俺が肯定すると、声の主は本来の自分から永遠に遠ざかる事になってしまう。
『…おまえは誰かに何かを聞いてほしいんだ』
〔…違う、違う〕
『…おまえは…誰かにいてほしいんだ、自分のそばに』
〔違う〕
『おまえは…本当は一人でいる事が怖いんだ』
〔違う!!〕
よほど本当の気持ちを知らせたくないのだろうか。暗闇が少しずつ色を減らしていき、黒い闇が俺の姿を包み始めた…。
「痛ったい!」
声に出てしまうくらい、激しい外傷的な痛みが右腕に走った。
その直後、自分が暗闇の世界から抜け出した事に気付いた。通話ボタンを押した瞬間に倒れたようで、俺は床の上にいた。
右腕を見ると、明鉄が噛みついていた。何度も噛みついたのだろう。ダラダラと血が流れ出ている。
明鉄は俺が目覚めた事に気付き、右腕から離れ、俺の顔にすりよってきた。
そうか、明鉄が俺の意識を呼び戻してくれたんだ。俺は明鉄をギュッと抱きしめた。
「ありがとう、明鉄」
「ワンッ!」
「おまえの歯が生え変わった後で助かったよ…」
そう、明鉄は一ヶ月前まで乳歯があり、少しずつ抜けて現在の大人の歯に生え揃ったばかりなのだ。乳歯だったり、乳歯が抜けた直後だったら痛い程の噛む力は無かったはず…。
数秒後、足元に落ちていた携帯電話が鳴った。今度は単調な音を続けているだけの電子音だ。画面を見ると、さっきは表示されなかった電話番号が表示されていた。どうやら、普通の着信のようだ。
俺はすぐに通話ボタンを押した。
「…もしもし」
『大丈夫かい?』
相手は名乗りもせずに聞いてきた。落ち着いた低めの声から、30代か40代くらいの男性だろうと推測した(仕事柄、相手の声で年齢を判断するのが癖になっている)。
そして、この人が何に対して聞いているのかもなんとなく分かった。
「愛犬が引き戻してくれました」
『それは凄い!犬が吠えたり噛んだりするくらいじゃ容易には戻れないはずだが、君の愛犬は相当な力を持っているんだね』
やはり、この人は俺が暗闇の世界に引き込まれた事を知っている。この携帯電話の持ち主の事も知っている。
「あの…」
『ああ、すまない。名乗っていなかったね。私は清水鴇(しみずとき)。夢を渡りながら人の心を治療する家系の当主をしている』
「夢を渡る…ああ、夢人の事ですね」
『よく知っているね。君は我々と近い業種の人なのかな?』
「近いと言えば近いかもしれません。…俺は原猫と言います。仕事は…」
『原家と言えば死人探しを生業にしている家系だ。そうか、君がお父上の跡を継いだんだね』
「…父を知っているんですか?」
『夢の中で何度かお会いしたよ。かなり負担のかかる仕事のようだった』
この業界は広いようで、実は狭いんじゃないか、と思えてきた。まさか今頃になって親父の話が聞けるとは思わなかった。
「所で、この携帯電話の持ち主は誰なんですか?」
『私の一番下の息子だよ。名は隼(はやぶさ)と言う。今年で高校二年生だ』
「俺と同じ歳ですね。…何故、夢人が暗闇に捕われているんですか」
『我々にも解決できない事が一つあってね。稀に自分の闇に捕われてしまう事があるんだ。何をきっかけに起こるのかはまだ判明していない。何よりも、一度闇に捕われると二度と戻れない。この現象で衰弱死してしまった親族が数人いる。何とか救い出したい所だけど、我々が出来るのはただ見る事だけなんだ』
特別な力を有する者には、それ相応の代償がある。親父から聞いた言葉だ。…それでも。
「俺が話す相手はいつも死人です。でも、声の主…隼はまだ生きている」
『その通り。昏睡状態のまま、病院に入院して今日で約一週間になる。でも、猫(びょう)君。深入りはしない方がいい。先程みたいに何度も闇に捕まってしまうと戻れなくなるよ』
「でも…」
『どうか、そのままにしてやってくれ。君の為にも。それじゃ』
鴇さんは一方的に通話と切った。
かけてくるのも突然だったが、切るのも突然だった。
「クゥゥ〜ン」
俺の膝の上にいる明鉄が俺を見ながら心配そうに鳴いた。明鉄の頭を撫でながら、隼を救う方法がないか考えた。そう思えば、あの暗闇の中でも花の匂いが微かにあった。多分、このストラップにある花の匂いだ。この花が解決策になるような気がする。それなのに、肝心の花の名前がどうしても思い出せない…。
「ああ、ここにい…はぁ!?」
「どったの、豹兄さん…うわっ、何だその血まみれな腕は!」
ドアが開いたと思ったら、豹と、何故か狐が入って来て、良く分からないけど驚いていた。時計を見ると、いつの間にか8時半を過ぎていた事を知った。俺はそんなに長く暗闇の中にいたのか…。
とりあえず、どうって事ないので二人に言った。
「兄貴、お帰り。狐は何しに来たんだ」
いつもと変わらない俺の態度に、二人は溜息をついた。 |