隼にカサブランカを手渡してから3日が経過した。
その間、他の電話がかかってこないので、俺はずっと自分の部屋で寝ていた。
今まで、死人と話しても少し眠れば治まっていた右目の痛みだったけど、何故か今になっても微弱ながら痛みが残っている。さらに言えば、少し体が重くなっている。それだけ、他人の意識の中に入り込むのは危険な事なのだろう。…いい経験になった、と思う事にしよう。
そろそろかと思い、携帯電話の写真を見てみた。世界が一新していた。白い空間だけだったのに、太陽の光と青空があり、左右には木が数本あり、そして中央には果てまで広がっているカサブランカの群集があった。これが、本来の隼の心の世界なんだ。
すると、またタイミングよく着信音が鳴った。見ているんじゃないか、と思いながら起き上がり、通話ボタンを押した。
『…もしもし』
電話から隼の声がした。やっと現実世界で会話が出来る。
「思い出せたか?」
『ああ、思い出したよ。僕の名前は清水隼。一族が恐れている自分の闇に落ちてしまった弱い人間だ』
「…おまえは一族が恐れる自分の闇から初めて抜け出した人間だ。そんな人間が弱いはずがないだろ」
『…そうか、そうだね。ありがとう……えっと…』
「ああ、そうか。まだ名前を言っていなかったな。俺は…」
『あ、待って!』
「なんだ」
『実際に会って君の名前を聞きたいんだ』
「……それは、おまえが今眠っている病院に来い、と言う事か?」
『そう言う事になるね。ダメ?』
「ダメじゃないけど…病院か…」
病院と言う存在は一番行きたくない場所だ。医療行為が苦手、と言うわけではない。常に生死が混ざり合う空間に入ると、必ずと言って良い程厄介な霊が自分の周りに集まってくる。死者よりも、死に瀕している生者の想いの方が強いので、嫌な霊が留まってしまうのだ。
病院に行くくらいだったら、死者しかいない墓地に行った方がまだマシだ。
「……しょうがない、行ってやるよ」
『やった!ありがとう!じゃあ、この後僕がいる場所についてのメール送るから』
「…ニセ死人がメールを遅れるなんて初耳だ」
『ひどいな〜それくらいは頑張るよ。じゃあ、いつでもいいから、絶対に来てね』
「…了解」
そして、通話は切れた。
俺は溜息をついた。〔いつでもいいから〕と言われると、逆に早く行かなければならない気になる。
メールはすぐに携帯電話に届いた。見ると、病院名と住所、そして病室番号と、締めくくりに喜びを表す絵文字があった。
気の抜けるような絵文字を見て、別に行かなくてもいいんじゃないか、と一瞬思った。
「ワンッ!」
俺が立ち上がったからなのか、俺の横で眠っていた明鉄も立ち上がり、何かを期待するかのような表情で俺を見た。尻尾を激しく回している所を見ると、どうやら散歩に行きたいらしい。俺の調子が悪かった為、今朝の散歩はいつもより短めにしていたせいもある。
「…悪いな、明鉄。今から行く所にはおまえは連れて行けないんだ」
部屋に飾っている咲き始めのカサブランカを数本選び、狐がおまけでくれたプレゼント用包装紙に包んだ。
「…タクシーを呼ばないとダメだな…」
こんな状態で外に出ると、どんな厄介な霊が近付いてくるか分からない。
俺は自分の厄介な体質を呪いながら、タクシー会社に電話をした。
隼がいる病院は、“総合病院”と言う病院クラスの中でもかなりでかいタイプだった。
建物がでかければでかい程、人間も、そして霊も多い。
俺はロビーに入った瞬間からげんなりしていた。受付や会計を長椅子に座って待っている人達の隙間を縫うように霊達も座っていたのだ。外気が入りやすい場所なので、まだ厄介な霊はいない。
案内図で病室を確認すると、5階の病棟である事が分かり、さらにげんなりしてきた。
エレベーターを使えばすぐだけど、密室になる空間は一番危険なので使う事は出来ない。全て階段で行くしかないのだ。
躊躇していてもしょうがない。俺は深呼吸をしてから病棟に繋がっている階段を上り始めた。
…2階、3階までは良かった。だけど、4階を通り過ぎる頃から目の痛みが激しくなった。
霊の姿は無いが、それは外見的な事で、実際は大勢の気配があって俺を囲んでいる。
…5階に着いた時には頭まで痛くなってきた。一歩進むごとに体が重くなり、地面が歪んでいるような感覚に襲われる。
こう言う時に限って、他の人がやって来る事は無い…。
あまりの重さに、床に膝と手が付いてしまった。生きている人間が次々と俺の上に乗っているかのような重さだ。
相手は何も言っていないのに、耳元で叫ばれているような気がして頭痛が激しくなっていく。
…風?
一瞬、視界が暗くなったと思った時、微かな風を感じて我に返った。その風を受けるごとに、重さが消えていく。
「大丈夫かい?」
落ち着いた男の声が頭上からあった。見上げると、藍色の背広を着た30代くらいの青年が立っていた。
右手には血色の扇子を広げて持っている。
「騒がしいと思って来たら君が倒れていて驚いたよ。君に乗りかかっていた人達は払ったから、もう心配ない」
どうやら、あの風は青年が持っている扇子によって作り出された力のようだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、まだ痛みが残る右目を押さえながら青年に言った。
「…ありがとうございます、鴇(とき)さん」
「え?何故私の名を…ああ!君が猫(びょう)君なんだね」
青年の声は一度携帯電話で聞き覚えがあったからすぐに分かった。この人が隼の父親、鴇さんだ。父親にしてはえらく若作りだ…。
「それにしても、よくここが分かったね。それに、苦手な場所だろうに、無理してまで来て…」
「隼に来いと言われたので、まあ渋々…」
「呼ばれた?…君、もしかしてあれからも隼と対面していたのかい?」
「そうですけど…知らなかったんですか?」
「何度も隼の意識を確認しようと試みていたんだけど、受け付けてくれなかったんだ。そうか、先客がいたからか」
「…すみません、邪魔をしてしまって」
「いや、いいんだ。それで隼が反応してくれたのだったら…あ、その花は…」
鴇さんは俺が右手に持っていた花束を見た。
「隼が好きな花らしいので持ってきました」
「隼がね…。本当は隼の母親、私の妻だが、彼女が愛していた花だったんだ。今でも庭に沢山咲いている」
「…だった、という事は」
「そう。隼が8歳の時に病死してしまった。元々病弱だったんだけど、その年に急変してね。
…気にしていない態度をずっととっていたけど、本心は母親を求めていたのかもしれないな。…さあ、ここが隼がいる病室だ」
隼の病室は個室だった。
中に入ると、ベッドで静かに眠っている隼と、ベッドの横の椅子に座って読書をしている灰色の背広を着た青年がいた。
鴇さんに似ているが、20代前半の容姿から、隼の兄であると推測した。
青年が俺の方を見たので挨拶する事にした。
「…はじめまして、原猫と言います」
「原…ああ、父さんが言っていた死人探し屋だな。俺の名前は燕(つばめ)。隼の兄貴さ。…あれ?何でここが分かったんだ?」
「隼が教えてくれました…」
俺は隼の横に立った。すぐそばで会話をしていたのに、本人は全く目を覚まさない。持っていた花束を隼の胸の上に置いた。
「…ご要望通りに来てやったぞ、隼」
やや大きめの声で隼に言ったが、隼の反応はない。
「ったく、強情な奴だな。さっさと起きないと即行帰るぞ!」
その言葉が効いたのか、それともカサブランカの匂いに気が付いたのか、隼はゆっくりと目を開け、俺に笑顔を見せた。
「……折角来たのに、もう帰るの?」
「こんな所に長くいると俺の身が持たないんだ」
「…そうか、だから病院に来る事を渋っていたんだ。…所で、君の名前は何て言うの?」
「名字は草原のゲンと書いて原(はら)、名前はネコと書いて猫(びょう)だ」
「…猫?変わった名前だね」
「よく言われる。もう慣れたけど…」
隼はゆっくりと起き上がり、俺の右手をとって両手で握った。とても冷たい手だった。
「…猫、僕を助けてくれありがとう」
「…どういたしまして」 |