鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉文学館


編集:岡戸事務所
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〜鎌倉を知って鎌倉観光をより楽しく。〜







 鎌倉文学館は、加賀百万石前田家の別邸として建てられ、16代当主利為によって改築されたもの。
 内閣総理大臣佐藤栄作が別荘として利用し、多くの鎌倉文士が訪れ、三島由紀夫が「春の雪」に描いた。
 昭和58年、前田家より、鎌倉市に寄贈され、昭和60年、「鎌倉文学館」として開館された鎌倉を代表する洋風建築物。
 鎌倉文学館では、鎌倉ゆかりの文学者の直筆原稿・手紙・愛用品などが展示されている。

鎌倉文学館の秋2011/11/27(okadoのブログ)


招鶴洞。
ここを潜り抜けると鎌倉文学館。


長楽寺跡
 北条政子源頼朝の菩提を弔うために建立した長楽寺があったことから、前田家の別荘は「長楽山荘」と名付けられていた。長楽寺は鎌倉幕府滅亡とともに焼け落ち、大町の安養院に移った。
 鎌倉文学館の入口に長楽寺跡の碑がある。
 詳しくは写真をクリック 



〜鎌倉の寺院と関係のある文学者たち〜

泉鏡花  明治24年、妙長寺(材木座)でひと夏を過ごし、そのときのことを「みだれ橋」(のちに「星あかり」と改題)に書いている。 

島崎藤村  明治26年、恋の悩みを抱えて円覚寺塔頭帰源院に参禅。 のちに「春」に書いた。

夏目漱石  明治27年、神経を病み、菅虎雄のすすめで円覚寺塔頭帰源院に参禅した。
 15年後、その体験を「門」に書いている。
 帰源院には、「佛性は白き桔梗にこそあらめ」と彫られた漱石の句碑が建てられている(参考:釈宗演に参禅した夏目漱石(okadoのブログ))。

葛西善蔵  大正8年に建長寺塔頭宝珠院に移転した。茶屋「招寿軒」の娘ハナの世話を受け、過ごした日々を『おせい』(ハナがモデル)などに書いた。
 建長寺塔頭回春院に墓がある。
 (参考:作家葛西善蔵と鎌倉(okadoのブログ)) 

有島武郎  大正8年に円覚寺塔頭松嶺院で過ごす。「或る女のグリンプス」(のちに「或る女」と改題)の後編を書いた。
 弟に有島生馬、里見クがいる。

林不忘
(長谷川海太郎)
 大正15年、材木座の向福寺で新婚生活を送る。
 その後、鎌倉を転々として、『丹下左膳』や『新巌窟王』を書いた。
  妙本寺祖師堂横に墓がある。
 (参考:長谷川海太郎の墓(okadoのブログ)




薔薇:春の雪

皇帝ダリヤ




中原中也  小林秀雄と交流。妙本寺境内のカイドウの木の下で、共通の女性長谷川泰子について話したことが、小林秀雄によって「中原中也の思い出」として書かれた。その後二人は八幡宮の茶屋でビールを飲んだという。最晩年は、壽福寺境内の借家に住んだ。

与謝野晶子  高徳院(鎌倉大仏)の観月堂のかたわらに「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」の歌碑が建てられている。

川端康成  『千羽鶴』に円覚寺塔頭佛日庵を登場させている。
 『山の音』は長谷を舞台としたもの。

高浜虚子  正岡子規に師事し、俳誌『ほととぎす』に参加。御成小学校正門(旧御用邸門)の門標は、虚子が筆をとった。
 晩年を鎌倉(由比ヶ浜)で過ごし、長谷寺句碑が建てられている。
 壽福寺に墓がある。

久米正雄  昭和9年から始まった鎌倉カーニバルの開催に尽力し、昭和11年には、鎌倉ペンクラブを結成して初代会長を務めた。
 第二次世界大戦末期の昭和20年には、川端康成らとともに貸本屋「鎌倉文庫」を設立した。
 長谷寺胸像が建てられている。

大佛次郎  『帰郷』には、円覚寺塔頭佛日庵のハクモクレンが描かれている。二十五坊跡をめぐる緑地開発反対運動に参加(御谷騒動)。久米正雄とともに、昭和9年には鎌倉カーニバルを開催、昭和11年には鎌倉ペンクラブを結成した。『鞍馬天狗』など多くの作品をのこしている(参考:大佛次郎茶亭)。




長谷小路の散策



鎌倉文学館:鎌倉市長谷1−5−3  0467(23)3911

交通
電車: 江ノ電「由比ヶ浜」駅より徒歩7分
バス: 鎌倉駅より藤沢・大仏方面行「海岸通り」より徒歩3分
開館時間
3月〜9月 9:00〜17:00
10月〜2月 9:00〜16:30
月曜休館(月曜が休日の場合は翌火曜)

鎌倉市景観重要建築物





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