鎌倉手帳(寺社散策)

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富士裾野の巻狩り
源頼朝が催した大軍事演習

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







富士の巻狩り
曾我物語絵巻
(箱根町立郷土資料館蔵)


 1192年(建久3年)、征夷大将軍となった源頼朝は、翌1193年(建久4年)、後白河法皇の一周忌法要が終わるのを待って、将軍としての大軍事演習を催した。

 3月から4月にかけては、入間野・那須野で大規模な巻狩りを催し、4月28日に鎌倉へ戻っている。

 そして、翌5月8日には、富士の裾野で巻狩りを催すため鎌倉を発った。



『吾妻鏡』によると・・・
富士裾野の巻狩りに従った主な御家人は・・・


北条義時、足利義兼、山名義範、小山朝政、小山宗政、結城朝光、里見義成、佐貫廣綱、畠山重忠三浦義澄三浦義村、千葉胤正、三浦義連、下河邊行平、稲毛重成和田義盛、榛谷重朝、阿曽沼廣綱、工藤祐経、土屋義C、梶原景時梶原景季、梶原景高、梶原景茂、梶原朝景、梶原景定、糟谷有季、岡部三郎、土岐三郎、宍戸家政、波多野義景河村義秀、加藤太光員、加藤景廉愛甲季隆海野幸氏、藤澤C親、望月重隆、小野寺道綱、市河行房、沼田太郎、工藤景光、工藤行光、祢津宗直、中野助光、佐々木盛綱、佐々木義C、澁谷重国小笠原長C武田信光など。

 他にも射手が多数集まり数え切れなかったという。


 大軍は、5月15日に富士裾野に到着。

 頼朝には南向きの五間の仮屋が建てられ、御家人の宿舎も同じように軒を並べて建てられた。

 この日は、殺生禁断の日であったため終日宴会だったのだという。


井出家の高麗門と長屋
井出家の高麗門と長屋
(富士宮市)

 頼朝は駿河国井出郷の井出館を仮屋(本陣)としたのだと伝えられている。



5月16日:頼家が鹿を射止める
 頼朝の嫡男頼家愛甲季隆の指示により初めて鹿を射とめた。

 頼朝は大いに喜び、狩りを打ち上げにして「矢口祭」(やぐちのまつり)を行っている。

 「矢口祭」は、狩りのはじめのときなどに三色の餅を供えて山の神を祭り射手を饗応することで、北条義時が黒・赤・白の三色の餅を献上した。

 頼家の手柄については梶原景高が使者となって鎌倉の北条政子に知らされたが、政子は「武将の嫡子が原野の鹿や鳥を獲るのは珍しいことではない。安易に使いをよこすのは、かえって煩わしいだけだ」 と冷たい態度だったという。 


5月27日:神鹿の出現
 狩りの最中に大鹿が現れた。弓の名手といわれた工藤景光がこの大鹿を狙って矢を放つが当たらす、二の矢、三の矢も外した。

 この時景光は・・・「十一歳の頃から狩猟の技を自慢としていました。 七十余歳のこれまで狙った獲物を外したことはありません。それなのに今はぼうっとして妙な気分になる始末。きっと、あの鹿は山の神の乗り物である神鹿だったのでしょう。そして、私の寿命は縮まってしまうでしょう」と言ったという。

 その夜、景光は発病。頼朝は狩りを止めて鎌倉へ帰ることを考えるが、宿老達に引き止められそのまま続けることにした。


5月28日:曾我兄弟の仇討ち
 夜半の雷雨の中、伊東祐親の孫の曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が、裾野に建ち並んだ宿舎に忍び込み、工藤祐経を殺害した。

 その後、兄の十郎祐成は仁田忠常に討ち取られ、弟五郎時致は頼朝の宿舎をめがけて突進したが小姓の五郎丸に捕らえられた。

 翌日、頼朝の前に引き出された時致は 「工藤祐経を討ったのは、父が殺された恥を雪ぐ(そそぐ)ため・・・」と話し、皆を感動させたという。

 頼朝は時致の助命も考えたが、工藤祐経の遺児犬房丸の訴えにより時致を引き渡し梟首させている。

工藤祐経の墓
工藤祐経の墓
曽我兄弟の墓
曽我兄弟の墓


頼朝の富士巻狩りと曽我兄弟の仇討ち


報復の連鎖〜曽我兄弟の仇討ち〜(okadoのブログ)


6月7日:鎌倉に帰還。



富士の巻狩り

右大将頼朝公富士裾野巻狩仁田忠常古猪討図
(箱根神社蔵)

 『曽我物語』によれば、富士裾野の巻狩りで源頼朝に襲いかかった大猪に仁田忠常が飛び乗り、刀を突き刺して退治したという。








富士山本宮浅間大社
富士山本宮浅間大社

 富士山本宮浅間大社の流鏑馬は、源頼朝が巻狩りの折に奉納したのを起源としているという。


新橋浅間神社
新橋浅間神社

 新橋浅間神社は源頼朝が巻狩りを催した際に創建したと伝えられる。


忍草浅間神社
忍草浅間神社

 巻狩りの折、源頼朝は忍草浅間神社の社領を定め、和田義盛畠山重忠は鳥居峠に随神門を創建したという。



草鹿
草鹿
(くさじし)

 草鹿は、源頼朝が巻狩りの際に、草を束ねて作った鹿を使って稽古したのが始まりといわれる。

 鎌倉宮では古式にのっとり鹿の形をした的を射る神事が執り行われる。



〜謀叛を疑われた源範頼〜

 曾我兄弟の仇討ちで、現場は大混乱となり、鎌倉への使者は「頼朝も嫡子頼家も命を落とした」と伝えた。

 それを聞いて気を失いそうになった北条政子に対し、頼朝の弟範頼は「私がいるから大丈夫です」と慰めたという。

 しかし、この言葉に頼朝範頼の謀叛を疑い伊豆修禅寺に幽閉した(参考:源範頼の謀叛)。

 曾我兄弟の仇討ちは「源頼朝暗殺計画」だったという説もある。


源範頼の墓
範頼の墓
(参考:修禅寺



曽我兄弟の仇討ち・・・(okadoのブログ)

富士裾野の巻狩と曾我兄弟の仇討ち・・・(okadoのブログ)









富士山
世界文化遺産「富士山」

〜富士山−信仰の対象と芸術の源泉〜

 源頼朝が巻狩りを催した富士山は、平成25年6月22日、カンボジアのプノンペンで開催された第37回ユネスコ世界遺産委員会において、世界遺産一覧表に「記載」することが決定されている。 



富士巻狩り:曽我兄弟仇討ちMAP
(富士宮市)

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