鎌倉手帳(寺社散策)
源頼朝挙兵の地
石橋山古戦場
編集:
岡戸事務所
カスタム検索
頼朝挙兵の地《 石橋山古戦場 》
1159年(平治元年)、
平治の乱
で敗れた
源頼朝
は、流された伊豆
蛭ヶ小島
で約20年間を過ごし、1180年(治承4年)、以仁王の令旨を受け、源氏再興の兵を挙げる。
まずは、伊豆の目代山木兼隆を襲撃しこれを討ち取り、大庭景親、伊東祐親を相手に石橋山に着陣した。頼朝軍は、たった三百の兵をもって、景親軍三千と祐親軍三百と戦った。
結果は大敗。
頼朝
は山中に逃れ、真鶴岬から海路、安房に向かうことになる(参考:
鎌倉の歴史と頼朝
)。
〜源頼朝挙兵時の敵将〜
◎山木兼隆
山木兼隆は、罪人として伊豆に流されていたが(理由は不明)、のちに目代(国司の代理人)となり、
蛭ヶ小島
に流されてきた
源頼朝
の監視役であった。
1180年(治承4年)8月17日、三嶋大社の祭礼に合わせて襲撃され、討たれた。
伊豆の国市
香山寺
に兼隆の供養塔がある。
源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃
源頼朝挙兵の日
源頼朝と伊豆国
◎大庭景親
鎌倉権五郎景政の流れをくむ
大庭氏の一族
。
保元の乱
(1156年(保元元年))では、兄景義とともに
源義朝
に従った。この戦いで兄景義が負傷したため、家督を継ぐ。
平治の乱
(1159年(平治元年))後、平家につき、
源頼朝
が挙兵すると平家方の兵を率いてこれを撃破した。安房に逃れた
頼朝
が東国の武士団を糾合し鎌倉入りを果たすと逃亡。富士川の戦いで平家が敗れると降伏し、のちに処刑された。
石橋山の戦いで
景親
には、
俣野景久
、河村義秀、
渋谷重国
、熊谷直実、
梶原景時
、山ノ内経俊らが従っている。
相模の武将「大庭氏」
鎌倉権五郎景政
(御霊神社)
大庭城址
(藤沢市)
明暗を分けた大庭兄弟(景義と景親)〜石橋山の戦い〜(okadoのブログ)
◎伊東祐親
伊豆に流された
源頼朝
の監視役を任された。しかし祐親が大番役として京へ上っている間、娘の八重姫と
頼朝
が恋仲となり、千鶴丸をもうけてしまう。怒った祐親は、千鶴丸を殺し、
頼朝
の暗殺も計画した。
頼朝
は
北条時政
のところへ逃げ事なきを得る。八重姫の伝説は、伊豆の国市
真珠院
に残されている。
頼朝
の挙兵時には、
大庭景親
と協力し、頼朝軍を撃破するが、富士川の戦いで平家が敗れると捕らえられ
三浦義澄
に預けられる。義澄の嘆願もあって命までは奪われなかったが、のちに自害したという。
伊東祐親は、のちに起こる「曾我兄弟の仇討ち」の原因をつくった者ともいえる人物である(参考:
相模の武将「曾我兄弟」
鐙摺山
(葉山町))。
曾我兄弟の仇討ち・・・(okadoのブログ)
◎佐奈田霊社と与一塚
源頼朝
の挙兵に参陣した
佐奈田与一
は、石橋山の戦いで、郎党文三とともに、たった15騎で
俣野五郎
75騎と戦ったと伝えられている。
与一
は
五郎
を組み伏せとどめを刺そうとするが、血糊で短剣が抜けず、五郎の加勢に駆けつけた長尾定景の手にかかり討ち死にした。朗党文三も奮戦の末、稲毛重成の手勢に討たれた。
のちに与一塚が建てられ、与一を霊神とする佐奈田霊社が建てられた。
※
佐奈田(真田)与一
は、
三浦義明
の弟
岡崎義実
の嫡男で義忠という。平塚市の真田の地を領していた。
※
俣野五郎
は、
大庭景親
の弟で景久という。現在の横浜市戸塚区から藤沢市を領していた(参考:
大庭氏
)。
※
長尾定景は、横浜市戸塚区の長尾を領していた。のちに源実朝を暗殺した公暁を討ち取ることとなる(参考:
久成寺
長尾城址
源実朝の暗殺(源氏の滅亡)
長尾定景一族の墓(okadoのブログ)
)。
法華経を読み続けた長尾定景〜石橋山の戦い〜(okadoのブログ)
義忠ゆかりの地
天徳寺(真田尊)
真田城址に建てられた曹洞宗の古刹(平塚市)
。
証菩提寺
(横浜市栄区)
源頼朝
が義忠(与一)の菩提を弔うために建てた。
◎文三堂
佐奈田霊社の下には、朗党文三をまつる文三堂がある。
◎佐奈田与一義忠討死の地
霊社の下の畑が与一の討死した場所と伝えられている。この畑は、ねじり畑と呼ばれ、この畑の作物は全てねじれてしまうと伝えられている。
〜鎌倉を知って鎌倉観光をより楽しく。〜
(参考)
相模の武将「三浦一族」
相模の武将「土肥実平」
源頼朝船出の浜(真鶴町)
石橋山で敗れた頼朝が安房に渡るために出発した浜。
1180年(治承4年)8月17日、伊豆の目代山木兼隆を討ち取り気勢をあげた
源頼朝
軍は、東に軍を進める。従った主な武将は、
北条時政
、
北条義時
、
土肥実平
、土屋宗遠、
岡崎義実
、
佐奈田義忠
、
大庭景義
、佐々木四兄弟、加藤景廉。
そして、
大庭景親
らの平家軍と石橋山で戦うこととなる。戦いが始まったのは8月23日。しかし、頼みの三浦軍は、折からの雨による増水で酒匂川を渡ることができず、8月24日の未明には大勢が決していたものと考えられている(参考:
小坪合戦と衣笠合戦
)。
石橋山の戦いで惨敗した
頼朝
は、
土肥実平
の手引きで土肥の椙山へ逃げ込む。このとき、杉の巨木の洞穴に隠れていた
頼朝
を
梶原景時
が発見するが、それを見逃したという伝説は有名である。その後、
頼朝
は箱根権現に身を寄せるが、再び椙山に戻り、「しとどの窟」で数日間を過ごした。
平家方の詮索の目が遠ざかると、真鶴岬に向かい、実平が用意させた舟で海路安房へと進む。途中、運良く
三浦義澄
らの舟と合流している。
安房に渡った
頼朝
は、
千葉常胤
、
上総介広常
らを引き入れ、さらに
畠山重忠
などの武蔵の武将も
頼朝
の下に降じ、10月6日に鎌倉入りを果たした。
石橋山の戦いで
頼朝
に敵対した大庭景親は、富士川の戦い後処刑され、伊東祐親は自害した。
源頼朝の鎌倉入り〜源氏再興の挙兵〜
源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃
源頼朝挙兵の日
源頼朝相模国へ進軍〜従った武将は・・・〜
三浦一族の進発〜石橋山の戦い〜
源頼朝の敗戦〜石橋山の戦い〜
先陣を切って討死した佐奈田与一義忠〜石橋山の戦い〜
源頼朝を助けた武将たち〜石橋山の戦い〜
石橋山の戦いと衣笠合戦〜三浦義明の討死〜
渋谷重国と佐々木四兄弟〜石橋山の戦い〜
明暗を分けた大庭兄弟(景義と景親)〜石橋山の戦い〜
梶原景時と石橋山の戦い
母の哀訴に命を救われた山内首藤経俊〜石橋山の戦い〜
法華経を読み続けた長尾定景〜石橋山の戦い〜
源頼朝・・・真鶴から安房へ
源頼朝大軍を率いて鎌倉入り
鎌倉手帳トップ
鎌倉検定のページ
(3級・2級・1級の問題と解説)
カスタム検索