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鎌倉御家人「足利氏」

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







足利義兼

 足利氏は源義家を祖とする源氏。

 義兼は北条政子の妹を嫁とし、幕府では重要な地位に置かれている。

 鎌倉五山第五位の浄妙寺は義兼の創建。

 1195年(建久6年)、東大寺大仏殿落慶供養のため上洛した際、東大寺で出家した。

 頼朝による源氏粛正を避けるためだったという。


浄妙寺
浄妙寺


源頼朝の側近足利義兼〜鎌倉:浄妙寺開基〜okadoのブログ



足利家時

 足利尊氏の祖父。

 足利家には、源義家の「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文があったというが、その七代の子孫というのが家時であった。

 家時は、自分より三代後の子孫に天下をとらせるよう願文を残し、自害したといわれる。

 その三代後の子孫が室町幕府を開いた足利尊氏。

 家時は報国寺を建立した。

 ただし、報国寺の建立(1334年)については、家時が1284年に亡くなったとされているので時代があわない。

 上杉重兼の開基という説もある。


報国寺
報国寺



足利貞氏

 足利尊氏の父。足利氏の菩提寺である浄妙寺を再興。

 浄妙寺に墓がある。


足利貞氏墓
足利貞氏墓
(浄妙寺)



足利尊氏

 後醍醐天皇が反幕の兵を挙げると、これを鎮圧するため京に向うが、途中で後醍醐天皇側につき、鎌倉幕府滅亡に貢献(1333年(元弘3年)5月7日、六波羅探題を陥落させている。)。

 北条高時から一字をもらって高氏と称していたが、後醍醐天皇より尊の字を授かり尊氏と称した。

 浄光明寺後醍醐天皇を裏切る覚悟を決めたといわれている。

 鎌倉幕府滅亡後の1335年(建武2年)、北条時行が反乱(中先代の乱)を起こすと、これを鎮圧して鎌倉に留まった。

 次第に後醍醐天皇との仲も悪化し、新田義貞が後醍醐天皇の院宣を得て鎌倉へ向かったため、これを迎え撃ち、そのまま京へと上る。

 一時、後醍醐天皇比叡山へ追いやったが、北畠顕家らに攻められ九州に逃れる(参考:北畠顕家の鎌倉攻め)。

 1336年(建武3年)、体勢を立て直し再び京を奪い、「建武式目」を制定し室町幕府が成立する。1338年(延元3年)、北朝の光明天皇より征夷大将軍に任ぜられた。

 長谷寺の十一面観音に金箔を施したのは尊氏。

 長壽寺には尊氏の遺髪を納めたという供養塔がある。


足利尊氏の墓
足利尊氏墓
(長壽寺)



足利直義

 尊氏の弟。

 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入った。

 北条時行反乱(中先代の乱)の際に、東光寺(現在の鎌倉宮)に幽閉していた後醍醐天皇の皇子護良親王を殺害している(参考:護良親王の墓)。

 のちに、尊氏と政治の問題で対立し、浄妙寺境内にあった延福寺に幽閉され最期を遂げた。尊氏に毒殺されたともいわれている(参考:観応の擾乱)。

 浄光明寺の地蔵菩薩は、直義の守り本尊(矢拾い地蔵)。

 浄妙寺の境内には、菩提所大休寺があった。


浄光明寺
浄光明寺
(直義ゆかりの寺)
延福寺跡
延福寺跡
(足利直義の墓)



〜清水寺に奉納した足利尊氏の願文〜

 1336年(建武3年)8月27日、足利尊氏は自筆の願文を清水寺に奉納している。

 内容は、「自分は仏の加護を賜り、今後の果報は弟の直義に与えていただきたい」といったもの。

 尊氏の願文奉納のきっかけは定かではないが、後醍醐天皇との戦いに勝利した時期の願文のため注目されている。



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★京都の将軍★


二代 義詮

 母は鎌倉幕府最後の執権・北条(赤橋)守時の妹登子。

参考:鎌倉幕府の滅亡



三代 義満

 南北朝を合一して守護大名の力を抑え、北山文化を開花させた。
 京都五山第二位の相国寺鹿苑寺(金閣寺)を創建。
 鹿苑寺の舎利殿(金閣)は北山文化の象徴。


金閣寺
鹿苑寺(金閣寺)



四代 義持

五代 義量



六代 義教

 鎌倉公方足利持氏と対立し、持氏を自刃に追い込んだ(永享の乱



七代 義勝



八代 義政

 東山文化を開花させた。
 伊豆国で堀越公方と称された政知の兄。
 慈照寺(銀閣寺)を創建。観音殿(銀閣)は東山文化の象徴。


銀閣寺
慈照寺(銀閣寺)



九代 義尚

十代 義殖

十一代 義澄

十二代 義晴

十三代 義輝

十四代 義栄

十五代 義昭

 義昭は、織田信長と対立し京を追放された。



☆鎌倉公方☆


足利基氏

 足利尊氏の四男。初代鎌倉公方瑞泉寺を中興している。

 基氏は、足利直義の養子となったともいわれ、母は、鎌倉幕府最後の執権赤橋守時の妹登子。

 鎌倉幕府滅亡後、鎌倉には兄の義詮(室町幕府二代将軍)がいたが、義詮は、時期将軍の地位に就くため京に呼び戻され、代わって基氏が鎌倉に送られ、鎌倉府の長官として初代の鎌倉公方と呼ばれた(1349年(正平4年))。

 父尊氏と叔父直義とが対立した観応の擾乱では、直義と上杉憲顕に付いたが、直義が敗北すると尊氏に従っている。

 関東における足利の勢力を固めたが、1367年(正平22年/貞治6年)、28歳で死去。瑞泉寺に葬られる。



足利氏満

 父基氏の跡を継いで、二代鎌倉公方となる。

 禅興寺の中興を上杉憲方に行わせている(現在は支院の明月院のみが残る。)。
 また、海蔵寺を上杉氏定に命じて建立させている。

 氏満の代から京の将軍家との対立がはじまり、持氏の代に鎌倉公方が実質上なくなることになる。

 1398年(応永5年)に死去。永安寺(廃寺)に葬られた。

 浄光明寺には、基氏の遺骨とともに氏満の遺骨が分骨されている。また、瑞泉寺には、氏満のものと伝わる墓塔がある。



足利満兼

 三代鎌倉公方

 将軍足利義満に対して大内義弘が起こした応永の乱では、義弘に味方するため京へ向けて進軍した。

 途中で義弘の敗北を聞き、引き返えしている。

 父氏満の菩提を弔うために永安寺(廃寺)を建立。

 1409年(応永16年)死去。

 瑞泉寺塔頭勝光院に葬られた。瑞泉寺には、満兼ものと伝わる墓塔がある。



足利持氏

 四代鎌倉公方

 祖父氏満の代からはじまった京の将軍家との対立は、持氏の代で衝突した。

 五代将軍義量が死去すると、持氏は将軍職に就くことを望むが、四代将軍義持の弟4人の中からくじ引きで将軍を決めることとなり、六代将軍には義教がなった。

 持氏は、四代将軍義持の猶子となっていたとされるが定かではない。

 その後、将軍義教にことごく反発するようになり、1438年(永享10年)の永享の乱へと発展し、持氏は敗れ、永安寺で自刃した。嫡男義久も報国寺で自刃。

 瑞泉寺には持氏ものと伝わる墓塔があり、別願寺には供養塔が建てられている。
 本覚寺には日出との伝説も残されている。



足利成氏

 五代目は持氏の子成氏がなったが、1453年(享徳3年)、関東管領との対立から上杉憲忠を謀殺し、室町幕府が派遣した今川範忠に攻められと古河に逃れ「古河公方」と称した(享徳の乱)。

 将軍義政は、古河の成氏に対抗するため義兄の政知を鎌倉公方として派遣するが、政知は鎌倉に入ることはできず「堀越公方」と称している。

 その後も成氏による反幕府行動は続けられるが、1478年(文明10年)、山内上杉家の重臣長尾景春の反乱を機に上杉氏と成氏が和睦。

 1483年(文明14年)、幕府も成氏と和睦したことで、成氏の鎌倉公方としての地位が承認される形となった。

 ただし、鎌倉では山内上杉家扇谷上杉家の対立もあり、成氏が鎌倉へ帰ることはなかった。

 1497年(明応6年)死去。

 成氏の起こした享徳の乱は、戦国時代の幕を開け、成氏の死後間もなく北条早雲が相模国を平定することとなる。


瑞泉寺
瑞泉寺
足利持氏の供養塔
持氏供養塔







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