鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉御家人「足利氏」


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足利義兼

 足利氏は源義家を祖とする源氏。義兼は源頼朝に従い、北条政子の妹を嫁とし、幕府では重要な地位に置かれている。
 鎌倉五山第五位の浄妙寺は義兼の創建。


足利家時

 足利尊氏の祖父。足利家には、源義家の「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文があったというが、その七代の子孫というのが家時であった。家時は、自分より三代後の子孫に天下をとらせるよう願文を残し自害したといわれる。
 その三代後の子孫が室町幕府を開いた足利尊氏。
 家時は報国寺を建立した。
 ただし、報国寺の建立(1334年)については、家時が1284年に亡くなったとされているので時代があわない。上杉重兼の開基という説もある。


足利貞氏

 足利尊氏の父。足利氏の菩提寺である浄妙寺を再興。浄妙寺に墓がある。



報国寺 竹の庭

浄妙寺貞氏の墓



足利尊氏


長壽寺尊氏の墓
 後醍醐天皇が反幕の兵を挙げると、これを鎮圧するため京に向うが、途中で後醍醐天皇側につき、鎌倉幕府滅亡に貢献(1333年(元弘3年)5月7日、六波羅探題を陥落させている。)。北条高時から一字をもらって高氏と称していたが、後醍醐天皇より尊の字を授かり尊氏と称した。
 鎌倉幕府滅亡後、1335年(建武2年)、北条時行が反乱(中先代の乱)を起こすと、これを鎮圧し鎌倉に留まった。次第に後醍醐天皇との仲も悪化し、新田義貞が後醍醐天皇の院宣を得て鎌倉に向かったため、これを迎え撃ち、そのまま京へと上る。一時、後醍醐天皇を比叡山に追いやったが、北畠顕家らに攻められ九州に逃れる。
 1336年(建武3年)、体制を立て直し再び京を奪い、建武式目を制定し室町幕府が成立する。1338年(延元3年)、北朝の光明天皇より征夷大将軍に任ぜられた。
 浄光明寺で後醍醐天皇を裏切る覚悟を決めたといわれている。長谷寺の十一面観音に金箔を施したのは尊氏。長壽寺には尊氏の遺髪を納めたという供養塔がある。


足利直義


直義ゆかりの浄光明寺
 尊氏の弟。
 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入った。
 北条時行反乱(中先代の乱)の際に、東光寺(現在の鎌倉宮)に幽閉していた後醍醐天皇の皇子護良親王を殺害している(参考:護良親王の墓)。
 のちに、尊氏と政治の問題で対立し、浄妙寺境内にあった延福寺に幽閉され最期を遂げた。尊氏に毒殺されたともいわれている(参考:観応の擾乱)。
 浄光明寺の地蔵菩薩は、直義の守り本尊(矢拾い地蔵)。
 浄妙寺の境内には、菩提所大休寺があった。


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☆鎌倉公方☆


足利基氏

 足利尊氏の四男。初代鎌倉公方。瑞泉寺を中興している。
 基氏は、足利直義の養子となったともいわれ、母は、鎌倉幕府最後の執権赤橋守時の妹登子。
 鎌倉幕府滅亡後、鎌倉には兄の義詮(室町幕府二代将軍)がいたが、義詮は、時期将軍の地位に就くため京に呼び戻され、代わって基氏が鎌倉に送られ、鎌倉府の長官として初代の鎌倉公方と呼ばれた(1349年(正平4年))。
 父尊氏と叔父直義とが対立した観応の擾乱では、直義と上杉憲顕に付いたが、直義が敗北すると尊氏に従っている。
 関東における足利の勢力を固めたが、1367年、28歳で死去。瑞泉寺に葬られる。


足利氏満

 父基氏の跡を継いで、二代鎌倉公方となる。
 禅興寺の中興を上杉憲方に行わせている(現在は支院の明月院のみが残る。)。また、海蔵寺を上杉氏定に命じて建立させている。
 氏満の代から京の将軍家との対立がはじまり、持氏の代に鎌倉公方が実質上なくなることになる。
 1398年(応永5年)に死去。永安寺(廃寺)に葬られた。
 浄光明寺には、基氏の遺骨とともに氏満の遺骨が分骨されている。また、瑞泉寺には、氏満のものと伝わる墓塔がある。


足利満兼

 三代鎌倉公方。
 将軍足利義満に対して大内義弘が起こした応永の乱では、義弘に味方するため京へ向けて進軍した。途中で義弘の敗北を聞き引き返えしている。
 父氏満の菩提を弔うために永安寺(廃寺)を建立。
 1409年(応永16年)死去。瑞泉寺塔頭勝光院に葬られた。瑞泉寺には、満兼ものと伝わる墓塔がある。


足利持氏

 四代鎌倉公方。
 祖父氏満の代からはじまった京の将軍家との対立は、持氏の代で衝突した。
 五代将軍義量が死去すると、持氏は将軍職に就くことを望むが、四代将軍義持の弟4人の中からくじ引きで将軍を決めることとなり、六代将軍には義教がなった。
 持氏は、四代将軍義持の猶子となっていたとされるが定かではない。
 その後、将軍義教にことごく反発するようになり、1438年(永享10年)の永享の乱へと発展し、持氏は敗れ、永安寺で自刃した。嫡男義久も報国寺で自刃。
 瑞泉寺には、持氏ものと伝わる墓塔がある。別願寺には供養塔が建てられている。
 本覚寺には日出との伝説も残されている。


足利成氏

 五代目は持氏の子成氏がなったが、関東管領上杉憲忠を暗殺したことから、今川範忠に攻められ古河に逃れた(古河公方 参考:享徳の乱)。




瑞泉寺

別願寺持氏供養塔






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