鎌倉手帳(寺社散策)

鶴岡八幡宮例大祭 長谷の灯かり



頼朝の息子たち
源頼家  源実朝

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







=頼朝の死と息子たち=

 源頼朝北条政子は、二人の男児を授かった。
 長男は源頼家、次男は源実朝。
 
 1199年(建久10年)、源頼朝が53歳でこの世を去ると、その跡を継いだ息子たちは、御家人たちの権力闘争に巻き込まれ殺されてしまう。



源 頼 家

 1182年(寿永元年)8月12日に誕生。

 鶴岡八幡宮の参道若宮大路」は、父源頼朝が母北条政子の安産を祈願して造営させたもので、そのとき誕生したのが頼家。

 頼朝亡き後、二代将軍となるが、実権を握りたい北条氏と比企氏の争いに巻き込まれ、伊豆修禅寺(修善寺)に幽閉されたのち、北条氏によって暗殺された(参考:比企氏の乱 比企能員の暗殺・比企氏滅亡)。


源頼家像
源頼家
(よりいえ)



源頼家墓
源頼家の墓
(修禅寺)
比企一族の墓
比企一族の墓
(妙本寺)

一幡の袖塚
息子一幡の袖塚
(妙本寺)
京都建仁寺
京都建仁寺
(頼家創建)



〜主な出来事〜

1193年(建久4年)

 「富士裾野の巻狩り」で鹿を射止めた。
 喜んだ父頼朝が母政子に報告するが、政子は「武士の子であるなら当たり前」と使者に伝えたという。

 この巻狩りでは、曾我兄弟の仇討ちが起こり、工藤祐経が殺害された。

 この事件が原因で叔父の源範頼が伊豆修禅寺に流され殺害されている(参考:源範頼の謀叛 太寧寺と源範頼)。


曾我兄弟の仇討ち・・・(okadoのブログ)

源頼朝の弟範頼(okadoのブログ)


1195年(建久6年)

 父頼朝に従い奈良東大寺大仏殿の落慶供養に参列。


1199年(正治元年)

 頼朝の跡を継いだ頼家は、慣習を無視した独裁が多かったことから、宿老13人による合議制が採用された。

 それにより、実質上、頼家の実権は奪われた。


1200年(正治2年)

 乳母夫の一人で頼りとしていた梶原景時が、御家人66名の弾劾に遭い鎌倉を追放される(参考:梶原景時の変 梶原景時の追放) 。


1203年(建仁3年)

 叔父阿野全成を謀叛の罪で処罰(参考:阿野全成の誅殺)。


1203年(建仁3年)

 乳母夫比企能員が北条時政に暗殺され、比企一族が滅ぼされた。

 頼家も伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺された(参考:比企氏の乱 比企能員の暗殺・比企氏滅亡)。






〜頼家の子〜

一  幡

 比企氏の乱によって殺害された(参考:比企能員の暗殺・比企氏滅亡 妙本寺)。


公暁(善哉)

 叔父実朝の猶子となり、鶴岡八幡宮の別当となったが、実朝を暗殺した後、討たれた(参考:源実朝の暗殺)。


栄実(千寿丸)

 泉親衡の謀叛の企てに利用され出家。その後、和田残党に担がれ六波羅を襲撃しようとしたが失敗して自刃した(参考:和田合戦 北条義時の独裁と和田義盛)。


禅暁

 実朝暗殺事件後、京で殺害された。


竹御所

 叔父実朝の猶子となり、四代将軍藤原(九条)頼経の妻となった。難産が原因で死去(参考:新釈迦堂跡)。





源頼家の誕生

二代将軍源頼家

乳母制度と頼朝・頼家・実朝

源頼家・・・和田胤長に伊豆崎の洞穴を探索させる!

源頼家・・・仁田忠常に富士の人穴を探索させる!

冨士の人穴探検・・・源頼家は浅間大菩薩に祟られたのか・・・?

源頼家の念仏禁止令〜称念房の伝説〜

源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡

吾妻鏡の物語と比企氏の乱

源頼家の悲劇〜比企氏の乱の真相は・・・〜

比企能員を暗殺した仁田忠常という武将



人穴富士講遺跡
(世界文化遺産)







源 実 朝

 1192年(建久3年)8月9日に誕生(参考:北条政子の安産祈願所)。

 兄頼家の失脚後、三代将軍となった。

 しかし、実権は二代執権北条義時と母である北条政子に握られ、実朝は蹴鞠や和歌にふけるようになる(実朝は『金槐和歌集』を編纂している。)。

 右大臣拝賀式の際に、甥の公暁(兄頼家の子)に暗殺された。

 これによって、源氏の政権は、三代で幕を閉じた(参考:源実朝の暗殺(源氏の滅亡) 実朝の暗殺 )。


源実朝像
源実朝(さねとも)
大通寺



大慈寺跡
大慈寺跡
(実朝創建)
京都大通寺
京都:大通寺
(実朝の菩提所)

源実朝五輪塔
壽福寺五輪塔
源実朝公御首塚
源実朝公御首塚
(秦野市)

隠れ銀杏 静の舞と隠れ銀杏

白旗神社 柏槇の古木

実朝歌碑 歌ノ橋

金槐和歌集 伊豆山神社



〜実朝の官位昇進〜

 実朝は、官位の昇進を強く望んでいた。その理由として「源氏の正統は実朝で絶えることになるので、せめて高官に昇り、家名をあげたい」というものであったといわれている。

 『吾妻鏡』によれば、1216年(建保4年)、大江広元より官位の昇進を急ぐことについて諫められている。

 しかし、実朝は次々に昇進を続け右大臣となった。これは、後鳥羽上皇の官打(かんうち)ともいわれているが、後鳥羽上皇は武家政権との融和を図っていたという説もある。

 ※「官打」とは、身分不相応な位に昇らせ不幸にしようという考えのこと。 


昇進を重ねた源実朝(okadoのブログ)



〜主な出来事〜

1204年(元久元年)

 坊門信清の息女を妻として迎える。


1205年(元久2年)

 畠山重忠北条時政の謀略によって討たれた。
 それから間もなく、時政とその妻牧の方が実朝を亡きものとして、平賀朝雅を将軍に据えようと企てたが、伊豆に追放されている(参考:畠山重忠の乱 畠山重忠殺害と北条氏の世代交替)。


1213年(建暦3年)

 泉親衡の謀叛の企てが露見。和田義盛の子らが加担していたことが原因となり、北条義時和田義盛が対立して合戦となる。この合戦により和田氏が滅んだ(参考:和田合戦 北条義時の独裁と和田義盛)。


1213年(建保元年)ころ

 実朝の家集『金槐和歌集』が編纂されたのがこの頃といわれている。


1214年(建保2年)

 壽福寺栄西が、実朝に『喫茶養生記』を献上した。


1216年(建保4年)

 宋へ渡航するため、陳和卿に唐船の建造を命ずる。翌年完成したが進水できなかった。
 (参考:宋に憧れた源実朝(okadoのブログ)


1219年(建保7年)

 鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式で甥の公暁に暗殺される。遺体は勝長寿院に葬られた。
 (参考:源実朝の暗殺(源氏の滅亡) 源実朝の木製五輪塔(okadoのブログ)








源実朝の誕生

乳母制度と頼朝・頼家・実朝

源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡

公暁と源実朝の暗殺・・・源氏の滅亡

源実朝の暗殺と倒幕を企てた後鳥羽上皇〜承久の乱〜

北条政子の上洛と将軍継嗣問題

源実朝が残した和歌

実朝桜・・・鶴岡八幡宮







次へ
(頼朝の兄弟)

「源氏」「鎌倉」「頼朝」トップ



伊豆・箱根
伊豆・箱根の旅
(源頼朝・北条氏ゆかりの地)

伊豆韮山
源頼朝の配流地
(伊豆韮山)





鎌倉手帳
(鎌倉情報トップ)

秋の鎌倉 流鏑馬


カスタム検索