鎌倉手帳(寺社散策)

お十夜法要 腰越漁港みなとまつり



源頼朝の妻北条政子

岡戸事務所
編集:岡戸事務所

FB







伊豆の国市北条氏館跡
北条氏邸跡
(伊豆の国市)
北条政子産湯の井戸
政子産湯の井戸
(伊豆の国市)


 北条政子は、北条時政の長女として伊豆国に誕生。
 
 『曽我物語』などでは、蛭ヶ小島に流されていた源頼朝と政子は、時政が大番役で京に上っているときに恋仲となり、それを知った時政は、目代の山木兼隆に嫁がせようとするが、政子は頼朝のもとへと走り、伊豆山権現に匿ってもらったと伝えられている。

 しかし、山木兼隆は、1179年(治承3年)に罪人として伊豆国に流され、翌年、知行国主だった源頼政が以仁王とともに挙兵し、敗死したことを受けて目代となった人物。

 しかも、頼朝と政子との間には、1178年(治承2年)頃には長女大姫が誕生していたと考えられていることから、『曽我物語』などが伝えるような事実はなかったものと考えられる。 


蛭ヶ小島
蛭ヶ小島
(伊豆の国市)
石橋山古戦場
石橋山古戦場
(小田原市)



政子の兄弟姉妹

宗時(兄):石橋山の戦いで討死
(参考:北条宗時の墓

義時(弟):のちの二代執権

時房(弟):三代執権泰時のときに連署

阿波局(妹):阿野全成の妻






 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝が鎌倉に入り、武家の都を創造すると、政子は御台所としてそれを支えた。

 「政子」という名は父時政の名から付けられたと伝えられているいるが、「政子」と呼ばれるようになったのは、1218年(建保6年)、従三位に叙せられたときからのようである。

北条政子像
北条政子像
安養院

 源頼朝亡き後、実権を握りたい北条氏は、有力御家人を次々と滅ぼした。

 1200年(正治2年):梶原景時が駿河国で討死(梶原景時の変)。

 1203年(建仁3年):比企能員が暗殺され、比企一族が滅亡(比企の乱)。
 (※同年、長男で二代将軍源頼家が追放され、翌年暗殺されている。)

 1205年(元久2年)、畠山重忠重保父子が討死(畠山重忠の乱)

 畠山重忠の乱後、政子と弟義時は、父時政を鎌倉から追放し、1213年(建暦3年)には侍所別当の和田義盛を滅ぼした(和田合戦)。

 1219年(建保7年)、次男・三代将軍源実朝暗殺(源実朝の暗殺)。

 これらの事件に政子がどのような立場で、どれだけ関わっていたのかは不明だが、北条氏主導の政権とするために自分の子を犠牲にし、源氏の血を絶ってしまった事は確かなこと。



〜全ての子に先立たれた北条政子〜

 「北条政子」・・・鎌倉幕府の実権を握り「尼将軍」と呼ばれた人物。
 そして「鬼嫁」というイメージもあるが、子ども達の事では、大変な苦しみを背負いながらその生涯を終えたと思われる。

 当時の高い位にある家の子育ては、実の母親が育てるのではなく、乳母がつき教育をする。

 政子の子らもそれぞれに乳母が付けられて育てられた。


〜長男頼家の場合〜

 長男の頼家は、比企氏が乳母を務めた。

 その上頼家は、比企氏の娘若狭局を側室としたことから、余計に実母政子や北条氏との縁が遠くなった。

 政子は、「愛」に関してもの凄く真直ぐな女性で、源頼朝の浮気相手の家を「叩き壊す」というような嫉妬丸出しの行動を平気でとれる女性でもあったため、息子への愛も重過ぎるものがあったのかもしれない。

 それが「比企憎し」に発展してしまったのではないだろうか。

 最終的には、その「比企憎し」が、頼家を伊豆修禅寺に幽閉し、さらに暗殺しなければならなくなったのかもしれない。

源頼家の墓
源頼家の墓
(修禅寺)
修禅寺指月殿
指月殿
(修禅寺)


〜次男実朝の場合〜

 次男の実朝は、頼家の子公暁によって暗殺される。

 公暁は、実朝と北条氏を「親の仇」として生きていたと思われるが、公暁を哀れに思った政子は、京に僧としての修行に出したり、鶴岡八幡宮寺の別当に就任させるなど、随分と世話をしたようである。

 しかし、それが公暁に絶好の「敵討ち」のチャンスを提供してしまったのかもしれず、さらには、夫頼朝の源氏政権をたった40年余で終らせてしまったのかもしれない。

源実朝御首塚
源実朝公御首塚
(秦野市)
源実朝五輪塔
実朝五輪塔
(壽福寺)


政子安産の祈願所(源実朝の誕生)


 悲運な生涯を終えたのは息子たちだけではない。長女と次女についても時代の大きな流れの中で亡くしている。


〜長女大姫の場合〜

 長女の大姫は少女のころ、木曽義仲の子で鎌倉に人質として送られてきた義高になつき、婚約までしていた(結婚していたともいわれる。)。

 しかし、その義高を殺害する命令が頼朝から出されたため、大姫は密かに義高を逃がしたのだが、すぐに捕らえられて殺されてしまった。

 大姫は生きる気力を失くし、長い間病気を繰り返し、最終的には自殺してしまったともいわれている(参考:木曽義高の誅殺)。

木曽塚
木曽塚
(常楽寺)
岩船地蔵堂
岩船地蔵堂
(大姫の守本尊)


〜次女三幡の場合〜

 次女の三幡は、天皇に嫁ぐことがほぼ決まっていたが、高熱を発し、京より招いた医師に診てもらったものの助からなかった。

 京の医師が後鳥羽上皇に命ぜられ毒を与えたとの説もある。



北条政子像
安養院







〜北条政子ゆかりの地〜
(鎌倉)

壽福寺
壽福寺
北条政子五輪塔
政子五輪塔
(壽福寺)

安養院
安養院
北条政子宝篋印塔
宝篋院塔
(安養院)

長楽寺跡
長楽寺跡






願成就院の政子地蔵

 次男実朝(三代将軍)が暗殺されたことによって将軍が不在となってしまったことから、政子は後鳥羽上皇の皇子を将軍として迎えようとするが断れている。

 しかたなく、藤原(九条)道家の子三寅を迎えることとなった(のちの頼経)。

 政子は2歳だった三寅の後見役となって「尼将軍」と呼ばれるようになる。

 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が執権北条義時追討の院宣を下し挙兵するが、尼将軍政子は御家人たちを前にして「故右大将の恩は山よりも高く海よりも深い・・・」と演説したと伝えられている。

 1225年(嘉禄元年)7月11日、源頼朝の妻として、頼家実朝の母として、藤原頼経の後見役として鎌倉幕府の基礎を築いた北条政子は69歳で亡くなった。

 勝長寿院で荼毘に付され葬られたと伝えられている。  



〜流人時代の源頼朝や北条政子などの足跡を巡る旅。〜

箱根
伊豆・箱根
伊豆の国市
伊豆韮山

しとどの窟
源頼朝の挙兵
源頼朝墓の梛
愛の証「椰の葉」



〜源頼朝の三男:貞暁〜

 源頼朝には、政子との間に生まれた頼家実朝以外に男の子がいた。

 伊豆の流人時代に伊東祐親の娘八重姫との間に生まれた千鶴丸と、1186年(文治2年)2月26日に伊達朝宗の娘大進局との間に生まれた貞暁(ていぎょう・じょうぎょう)。

 千鶴丸は伊東祐親に殺されたが、貞暁は1192年(建久3年)に仁和寺に入り、その後高野山に登っている。

 貞暁は、政子の勘気に遭い、人目を憚るように育てられていたという。



北条政子頭髪梵字曼荼羅
北条政子頭髪曼荼羅
(伊豆山神社)

 熱海の伊豆山神社に残されている「北条政子頭髪曼荼羅」は、源頼朝の一周忌に政子が自らの髪の毛を除髪して刺繍したというもの。







源頼朝と伊豆国

流人源頼朝に恋した北条政子

尼将軍と呼ばれた北条政子

源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡

源頼朝の失政か?・・・大姫入内問題

源頼家の悲劇〜比企氏の乱の真相は・・・〜

北条政子の晩年・・・子たちへの思い

北条政子の頭髪曼荼羅〜源頼朝の一周忌〜

乳母制度と頼朝・頼家・実朝

二代将軍源頼家

源頼家の誕生

伏見広綱の屋敷を破壊・・・頼朝と政子の夫婦喧嘩

源実朝の誕生

源実朝の暗殺と倒幕を企てた後鳥羽上皇〜承久の乱〜

恐るべき北条政子〜比企能員暗殺・比企一族滅亡〜

吾妻鏡の物語と比企氏の乱

比企能員を暗殺した仁田忠常という武将

公暁と源実朝の暗殺・・・源氏の滅亡

北条政子の上洛と将軍継嗣問題



源頼朝像
鎌倉の歴史と源頼朝


「源氏」「鎌倉」「頼朝」トップ







伊豆・箱根
伊豆・箱根の旅
(源頼朝・北条氏ゆかりの地)

伊豆韮山
源頼朝の配流地
(伊豆韮山)





鎌倉手帳
(鎌倉情報トップ)

秋の鎌倉 鎌倉の紅葉


カスタム検索