鎌倉手帳(寺社散策)

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武家政権を樹立した男
平 清 盛


岡戸事務所
編集:岡戸事務所







平清盛
平清盛像
(六波羅蜜寺)


 平清盛は、伊勢平氏の棟梁平忠盛の嫡子。

 母は不明だが、古くから白河法皇の落胤とする説がある。

 『平家物語』では、白河法皇の寵愛をうけた祗園女御が産んだ子であるされている。

 近年では、祗園女御の妹が産んだ子ともいわれ、1120年(保安元年)、母が急死して3歳だった清盛は、母の姉祗園女御が養育、やがて忠盛にひきとられたのだとも・・・。

 1153年(仁平3年)1月15日、父忠盛が亡くなると、清盛は、その跡を継いで平氏の棟梁となる。


祇園女御供養塔
祇園女御の供養塔





〜保元の乱と平治の乱〜

 1156年(保元元年)、後白河天皇と崇徳上皇の対立によって起こった保元の乱では、源義朝とともに後白河天皇方につき勝利をおさめ、栄達の基礎をつくりあげる。

 保元の乱後、後白河天皇が皇位を二条天皇に譲って院政を開始したことで、後白河上皇派の信西と二条天皇派の藤原信頼が対立。

 そして、1159年(平治元年)、反信西派と源義朝と結び付いた平治の乱が発生。

 このとき、後白河上皇方についた清盛は、義朝を破り、反信西派を一掃して、武家政権樹立の基礎を築きあげた。

 平治の乱では、のちに鎌倉に武家政権を築く源頼朝が初陣を果たしているが、伊豆国蛭ヶ小島へ流されている。


平治物語絵巻
平治の乱
(平治物語絵巻)


源頼朝
源頼朝
源義経
源義経



〜公卿となった清盛 ・・・
そして太政大臣に〜


 保元の乱と平治の乱によって、武家勢力は清盛を棟梁とする平氏だけとなった。

 平治の乱後の1160年(永暦元年)8月11日、後白河上皇は、天皇親政派に対抗するため、武士の棟梁清盛を公卿の列に加える。

 武士が昇殿を許された例はあったが、公卿となったのは清盛が初めてのこと。

 この後白河上皇の方針に対する公卿たちの反応については何も伝えられていないことから、これといった反対もなく実現されたものと考えられている。

 公卿となった後、清盛は昇進を重ねていく。

 1161年(応保元年)、検非違使別当を兼ね権中納言

 1162年(応保2年)、従二位

 1165年(長寛3年)、権大納言・兵部卿

 1166年(永万2年)、正二位内大臣

 そして、1167年(仁安2年)2月11日、左・右大臣をとび越して従一位太政大臣となる (※太政大臣は三ヶ月で辞任。) 。

 太政大臣となった翌年、清盛は重病となり、出家して浄海と号している。


平清盛
平清盛



〜清盛の重病と高倉天皇の即位〜

 平治の乱後の清盛の昇進には、妻平時子の妹滋子の存在も大きな意味があった。

 滋子は、後白河上皇の妹上西門院に仕えていたが、後白河上皇の目にとまり、1161年(応保元年)に憲仁親王を産んでいる。

 その憲仁親王が1168年(仁安3年)に即位して高倉天皇が誕生。

 この即位は、「重病となった清盛が死ぬようなことがあれば、天下が乱れる」と危惧した後白河上皇の発議によって行われたのだといわれている。

 当時の天皇は、亡くなった二条天皇の子六条天皇だったが、清盛の重病を聞いた後白河上皇は、六条天皇から憲仁親王へ譲位させることで、上皇の地位を固めておこうと考えたのだという。

間もなく清盛の病は平癒。

翌年、後白河上皇は出家して法皇となっている。


高倉天皇
高倉天皇



〜殿下乗合事件〜

 1170年(嘉応2年)7月、清盛の孫資盛(重盛の子)が摂政藤原基房の車と路上で行き会ったが、資盛が馬から降りなかったため、さんざんな辱めを受けたとする「殿下乗合」(でんかのりあい)事件が発生。

 相手が清盛の孫であることを知った基房は、これを謝罪するが、重盛は許さず、3ヶ月後には参内する基房の行列を襲撃させ、4人が「もとどり」を切り落とされた。

 『平家物語』では、この報復の首謀者は清盛と伝えているが・・・

 この事件を見聞した慈円は『愚管抄』に、 「小松内府(重盛)は、心の美しい人なのに、どうしたことか・・・」 と記しているようなので、首謀者は重盛だったと考えられている。


平重盛
平重盛
(神護寺蔵)

 重盛は、父清盛の後継者として期待されていたが、平氏と後白河法皇との関係が破綻する中の1179年(治承3年)7月29日に、清盛に先立って亡くなった。



〜一門の栄達 ・・・
平氏に非ざるは人に非ず〜


 清盛の昇進は、その一門の栄達をもらす。

 1171年(承安元年)には、平時忠が権中納言に任ぜられた。

 時忠は高倉天皇を生んだ滋子の兄。

 九条兼実は日記『玉葉』には、 「権中納言が十人になったのは初めての例。昨年宗盛(清盛の三男)が9人の例を開いたが未曾有のことだ」 と記されている。

 これまでの例では、権中納言の定員は、5人から7人だったのだという。

 のちに、平時忠は、「平家にあらずんば人間にあらず」という発言をした人物。



〜娘徳子の入内〜

 清盛は天皇の外戚の地位を得るため、1171年(承安元年)に娘徳子を高倉天皇の後宮に入れる。

 当初徳子は、後白河法皇の養女としての入内で「院の姫君」と呼ばれていたが、間もなく「平相国の女」と呼ばれている。

 1178年(治承2年)に待望の皇子が誕生。

 のちの安徳天皇。



〜院と清盛の対立・・・
鹿ヶ谷の陰謀〜


 平氏一門と血がつながる高倉天皇の即位させた後白河法皇だったが、もともと清盛は、天皇親政派に近い存在だったので、一門の希望が高倉天皇に注がれるようになる。

 そのため、後白河法皇の平氏への警戒心は徐々に大きくなっていった。

 1177年(治承元年)、空位となっていた左大将を狙って、藤原成親などの後白河法皇の近臣が争っていたが・・・

 清盛は、長子重盛を右大将から左大将へ、三男宗盛を右大将に据えてしまう。


平宗盛
平宗盛


 そんな中、平氏打倒の陰謀事件が発覚(鹿ヶ谷の陰謀)。

 京都東山鹿ヶ谷の俊寛(後白河法皇の側近)の山荘で、藤原成親、西光、俊寛らが集まって平氏打倒の謀議をこらしたという事件。

 とくに首謀者とみられる成親は、人事で清盛の三男宗盛にまで越えられてしまった悔しさがあったのだという。

 成親の妻は重盛の娘だったので、余計に悔しかったかもしれない。

 この事件の発覚によって、清盛は参加者を一網打尽にするが、院と清盛との対立がはっきりとした事件となった。

 この事件は清盛のでっちあげだとする説もあるが、いずれにしても院と清盛との対立が、かなり深刻なものとなっていたということ。


後白河法皇
後白河法皇



〜清盛のクーデターと以仁王の挙兵〜

 鹿ヶ谷事件によって有力な近臣を失った院だったが、清盛を無視した人事を次々と行う。

 こうした院の態度に、ついに清盛は、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、独裁政治をはじめる(1179年(治承3年)11月20日)。

 さらに、翌年には、娘徳子の産んだ安徳天皇を即位させた。


安徳天皇
安徳天皇


 安徳天皇に譲位した高倉上皇は、これまでの例をやぶって最初の社参を平氏に縁のふかい厳島神社とする。

  しかし、この先例をやぶった厳島社参は、園城寺延暦寺興福寺の大衆が平氏から離反するきっかけとなってしまう。

 こうした情勢の中、1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第二皇子以仁王が源頼政と謀って、全国の源氏に平氏打倒の令旨を発し、自らも挙兵。

 『吾妻鏡』によれば、この令旨は、4月27日、源頼朝のいる伊豆国北条館に届けられた。

 しかし、以仁王の挙兵は失敗に終わり、平氏軍に追われた以仁王は、5月26日、宇治平等院での戦いで討死。

 当時の情勢は、京都から自国へ帰る途中の三浦義澄と千葉胤頼(常胤の六男)によって、頼朝にも伝えられている。


以仁王
以仁王

源頼政
源頼政


 源頼政は、摂津国多田荘を根拠地とした摂津源氏。

 清盛の計らいによって従三位にまで昇った。

 『平家物語』は、清盛の三男宗盛が、頼政の嫡男仲綱が秘蔵していた名馬を強請し、仲綱と名付けて辱めたから、清盛に対する謀反を起こしたのだと伝えている。

 平等院の戦いで自害。


源頼政の墓
源頼政の墓
(平等院)



〜福原遷都と還都〜

 平等院の戦い後、福原から京都に入った清盛は、5月30日、突如、安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇が福原に遷幸されることを発表。

 洛中が大騒ぎの中、6月2日に遷幸が行われた。

 当時、人々は何のための遷幸なのか分からずにいたが、しばらくしてこれが遷都であることを知る。

 しかし、福原遷都はうまくいかず、宗盛なども京都に帰ることを主張していたとう。

 延暦寺の大衆も蜂起して遷都反対を訴えた。

 その結果、11月23日には、突如、「一人も福原に残るべからず」と発表し、26日には安徳天皇・後白河法皇をはじめ平家一門も京都に帰った。

 清盛が何故遷都を強行したのか定かではないが、延暦寺からの圧迫を避けるために行ったものではないかともいわれている。

 結局は、延暦寺の圧力によって還都も行うことになるが、この行動は平氏の威信を下げる結果となった。

 この間の8月17日、伊豆国源頼朝挙兵

 10月20日には、平維盛を大将とする平氏軍が富士川の戦いで敗走させられた。



〜南都焼討〜

 11月26日、安徳天皇・後白河法皇を奉じて京都に帰った清盛だったが・・・

 翌日には延暦寺の堂衆が源氏につき、28日には、平経盛の知行国若狭国の在庁官人が平氏にそむき、29日には、近江源氏が園城寺に入ったという知らせが届く。

 さらに、延暦寺園城寺興福寺などの反平氏の寺社勢力も活発な動きを見せ始め、反乱は全国的な展開となった。

 12月18日、ついに、清盛は、後白河法皇の幽閉をといて政権を後白河法皇に返し、反平氏勢力の討伐に専念することとする。

 そして、12月25日、南都討伐に平重衡を向かわせ、28日には、南都を焼き尽くした(南都焼討)。

 東大寺興福寺の堂舎・僧坊はことごとく焼失。

 東大寺は日本国の総国分寺であり、興福寺は藤原氏の氏寺。

 この南都焼討によって、平氏は寺院勢力と貴族を完全に敵に回してしまうことになる。


東大寺
東大寺
興福寺
興福寺

延暦寺
延暦寺
園城寺
園城寺



〜清盛の死〜

 1181年(治承5年)2月、病に倒れた清盛。

 死期を覚った清盛は、後白河法皇に 「愚僧の死後は万事宗盛に仰せつけられ、宗盛と御相談のうえお取り計らいください」 と奏上するが、法皇からの確答は得られなかった。

 怨めしく思った清盛は、左少弁藤原行隆を召して 「天下のことは宗盛の命を第一とせよ。宗盛の命に異論を唱えてはならない」 と命じたという。

  閏2月4日死去(享年64歳)。

 平清盛の死

 その後の平氏は、3月の墨俣の戦いで勝利するものの、以後、大きな戦勝報告はなく、1183年(寿永2年)には、源義仲によって京を攻められ都落ちした。

 再び京に戻ることはなく、1185年(元暦2年)、壇ノ浦で滅亡。


六波羅蜜寺
六波羅蜜寺

 平忠盛以来、清盛・重盛と続く平家一門の屋敷が建ち並び、その数は5200余りに及んだという。


三十三間堂
三十三間堂

 三十三間堂は、1164年(長寛2年)、後白河上皇が平清盛に資材協力を命じて創建した寺院。







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