鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉「親王将軍」


編集:岡戸事務所
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 親王将軍といっても名ばかりの将軍で、実権は北条得宗家に握られていた。



宗尊親王
 五代執権北条時頼は、1251年(建長3年)、将軍藤原頼嗣を廃し、宗尊親王を迎えることに決定した。宗尊親王は、後嵯峨天皇の皇子。これより先は親王が将軍となることから親王将軍と呼ばれる。
 1252年(建長4年)、鎌倉に到着し、六代将軍に任命された。室町時代に関東管領上杉氏の祖となる上杉重房が、親王の下向に従ってきている(上杉重房と関東管領上杉氏(okadoのブログ))。
 宗尊親王は、藤原仲能に命じて、現在の海蔵寺の前身となる寺を建立している。
 しかし、1266年(文永3年)、正室近衛宰子と僧良基の密通事件によって謀叛の疑いをかけられ、鎌倉を追放となった。
 七代将軍には宗尊の子惟康がなった。



宗尊親王の鎌倉入りの経路(『吾妻鏡』)

固瀬宿→稲村ヶ崎浜の鳥居の西→下の下馬橋→小町口



了行法師の謀叛と追放された将軍藤原頼嗣(okadoのブログ)


惟康親王
 宗尊親王の子。
 父の鎌倉追放をうけて将軍となった。朝廷より親王宣下がでず、源惟康と名乗っていた。
 1289年(正応2年)、将軍を廃され鎌倉を追放された。
 この年、鎌倉を訪れた後深草院二条は、その著書『とはずがたり』に惟康親王の惨めな帰洛を見学したという。
 追放後、親王宣下を受けて惟康親王と称した。

久明親王
 八代将軍には、後深草上皇の皇子久明親王が迎えられる。1308年(延慶元年)、将軍を解任となり鎌倉を追放された。

守邦親王
 九代将軍には、惟康親王の孫である守邦親王が迎えられた(久明親王と惟康親王の娘との間の子)。鎌倉殿中問答で諸宗派をことごこく論破した日蓮宗の日印に題目宗の布教を認めた(参考:日蓮上人辻説法跡)。
 1333年(元弘3年)、新田義貞によって鎌倉幕府が滅ぼされると、将軍を退き出家した。鎌倉幕府最後の将軍となった。 鎌倉で亡くなったという。







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