鎌倉手帳(寺社散策)

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甲斐源氏:武田信義

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







 武田信義は、1128年(大治3年)8月15日、新羅三郎義光(源義光)を祖とする甲斐源氏源清光の次男として誕生(一卵性双生児だったという。)。

 13歳で武田八幡宮で元服し「武田」を名乗り、甲斐武田氏の祖となる(義光から数えると4代目)。

 1180年(治承4年)、以仁王の令旨を受けて挙兵。甲斐源氏を石和に集結させ8月頃には甲斐国の主導権を握っていたという。

 『吾妻鏡』によると、9月15日、武田信義と嫡男の一条忠頼以下の甲斐源氏は信濃の平氏家人を撃ち破り、10月14日には駿河に侵攻し駿河国の目代橘遠茂を討ち勢力を拡大した。

 10月20日、源頼朝が駿河国に入ると富士川の戦いに参戦し、平維盛率いる平氏軍を敗走させた。

 頼朝は信義を駿河守護に、信義の弟安田義定を遠江守護としたという。


平家越
富士川の戦い


 しかし、翌1181年(養和元年)3月、後白河法皇が信義に頼朝追討の下文を与えたという風聞が流れ、鎌倉に召喚された信義は頼朝に忠誠の起請文を書かされている。

 1184年(元暦元年)6月には嫡男一条忠頼が謀叛を企てたとして誅殺され、1185年(文治元年)に頼朝が弟範頼に宛てた書状にも疑いの目で見られていたことが書かれている。

 1186年(文治2年)3月9日、子忠頼の反逆で頼朝の勘気を蒙り、それをはらすことなく59歳で亡くなった。







嫡男:一条忠頼

 甲斐国山梨郡一条郷(山梨県甲府市)を領し、一条氏を名乗った。

 富士川の戦いや木曽義仲追討で活躍したが、1184年(元暦元年)6月16日、鎌倉に招かれた酒宴の席で、源頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺された。


三男:板垣兼信

 甲斐国山梨郡板垣庄を基盤としていたことから、板垣氏を名乗った。

 源頼朝の麾下にあって一ノ谷の合戦などで功績をあげたが、頼朝に対し、源氏一門であるにもかかわらず土肥実平より下位に置かれたことへの不満を述べるなど、次第に頼朝から警戒されるようになり、1190年(建久元年)、隠岐国へ流された。

 のちの戦国大名武田信玄に仕えた板垣信方は兼信の子孫。


四男:武田有義

 富士川の戦いに功績を残した。

 1184年(元暦元年)には兄の一条忠頼が誅殺され、1186年(文治2年)には父の信義が亡くなり、さらには、1190年(建久元年)、次兄の板垣兼信が隠岐に流され、甲斐源氏の中心として生き残る。

 しかし、頼朝亡き後の1200年(正治2年)、鎌倉を追放された梶原景時に同心し、甲斐国を逐電(梶原景時の変)。

 屋敷からは有義を征夷大将軍とするという景時からの密書が発見されたという。
 その後の消息は不明。 


五男:武田信光

 甲斐国八代郡石和荘を基盤としていたことから、石和氏を称していた。

 1180年(治承4年)、父信義とともに挙兵。

 駿河国の目代橘遠茂を生け捕っている。

 その後、源頼朝に仕えて活躍し、1193年(建久4年)の冨士裾野の巻狩りには従兄弟の小笠原長清とともに供奉した。

 頼朝亡き後の1200年(正治2年)、梶原景時が兄の有義に送ったという密書を発見し、幕府に申立てを行っている。

 この事件以降、武田氏棟梁の地位が信光に移ったものと考えられている。

 1203年(建仁3年)には、謀叛を企てたとする頼朝の弟阿野全成を捕らえ(阿野全成の誅殺)、1213年(建保元年)の和田合戦では、北条義時に味方し和田義盛の追討に加わった。

 1221年(承久3年)の承久の乱では、東山道の大将軍として兵を率い、乱後には安芸国守護に任じられた。

 1248年(宝治2年)12月5日、87歳で没。

 小笠原長清海野幸氏望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されていた。



〜甲斐源氏「武田氏」〜

 武田氏は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏。

 義光の子義清(武田冠者)は常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田)を本貫として「武田」を名乗ったが、嫡男清光の乱暴が原因で甲斐国へ配流されたのだといわれている。

 その後、義清の孫にあたる信義が13歳で武田八幡宮において元服し、再び「武田」を名乗ったことから、以後に続く武田氏の初代とされている。


清和天皇

貞純王

経基

満仲

頼信

頼義

義光

義清

清光

信義


武田信玄
武田信玄

のちの戦国大名で無敵と呼ばれた騎馬軍団を率いた武田信玄は、武田家の19代当主。







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