鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉初詣特集 鎌倉江の島七福神



比企一族の供養塔
〜鎌倉:妙本寺〜

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







比企一族の供養塔


 『吾妻鏡』によれば、源頼朝の乳母を務めた比企禅尼は、1159年(平治元年)の「平治の乱」に敗れ、翌年伊豆国に流された頼朝を支え続け、1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵を果たすまでの約20年の間、仕送りを続けていたという。

 そのため、比企禅尼の養子比企能員(ひきよしかず)は、頼朝の信任が厚く、二代将軍頼家の乳母夫となり、さらに娘の若狭局が頼家の側室となって一幡を出産するなど権力をつけ、北条氏と並ぶ存在となった。

 しかし、1203年(建仁3年)、比企能員は、北条時政によって暗殺され、比企一族も北条義時らによって攻められ滅亡した。

 妙本寺祖師堂横には比企一族の供養塔が建てられている。





比企能員邸址碑

 鎌倉に武家の都を創った源頼朝は、武蔵国の比企郡から比企禅尼を鎌倉へ招いて住まわせた。

 そこが妙本寺が建てられている地(比企ヶ谷)で、祖師堂が建てられている辺りに比企禅尼の屋敷があったと伝えられている。



〜比企氏の滅亡〜

 源頼朝が亡くなると二代将軍には長男の頼家が就任した。

 比企館で誕生した頼家は、能員の妻を乳母とし、さらに、能員の娘若狭局を側室としたことにより、母北条政子やその実家である北条氏より比企氏を頼りとしていた。

 『吾妻鏡』は、伊豆のころより頼朝に仕えていた安達盛長の息子景盛の嫁を横取りしたり、蹴鞠に夢中になるなどの乱行もあったと伝えている。


 1203年(建仁2年)、頼家が病気(危篤状態だったといわれる。)になると、北条時政政子は、頼家の弟実朝を将軍職に据える画策をした上で、能員を時政邸におびき出し、仁田忠常に命じて能員を暗殺、時政の子義時らは比企館を攻めて一族を滅亡させた。

 病から癒えた頼家は、頼みの比企一族を滅ぼされた上、将軍職まで失ってしまう。
 時政らは、頼家を伊豆修禅寺に幽閉し、のちに暗殺した。

 頼家の嫡子一幡は、比企一族とともに焼け死んだと伝えられる。


比企氏の乱

比企能員の暗殺・比企氏滅亡


一幡の袖塚
一幡袖塚
源頼家の墓
源頼家の墓







〜北条時政邸跡と比企一族の墓〜

 妙本寺を建てた比企能本は、四代将軍藤原(九条)頼経に頼んで、北条時政邸の跡を一族の墓所としたという説がある。

 そこが安国論寺のある場所であるといわれているが定かではない。

 安国論寺の寺伝では、日朗が庵を営むに当たって、妙本寺の墓所が妙本寺に移されたとされているらしい。

 この説が正しいとすると北条時政邸(名越亭)は、安国論寺のある場所にあったことになる。

 これまで、釈迦堂切通の東側、衣張山西側中腹の遺跡が「北条時政邸跡」とされてきたが、平成20年の発掘調査で「北条時政邸跡」ではなかったことが判明しているだけに興味のある説である。


比企一族の供養塔




比企一族の供養塔と一幡の袖塚

乳母制度と頼朝・頼家・実朝

源頼朝と伊豆国

源頼家の悲劇〜比企氏の乱の真相は・・・〜

二代将軍源頼家

源頼家の誕生

恐るべき北条政子〜比企能員暗殺・比企一族滅亡〜

吾妻鏡の物語と比企氏の乱

比企能員を暗殺した仁田忠常という武将









妙本寺
妙本寺

 妙本寺は、源頼朝の御家人比企能員邸の跡地に能員の末子能本が建てた寺。
 この地で有力御家人比企氏が滅亡し、二代将軍源頼家の嫡子一幡が焼け死んだ(参考:比企氏の乱)。


鎌倉市大町1−15−1
0467(22)0777

鎌倉駅東口から徒歩8分



北鎌倉の寺社・史跡巡り
小町大路沿い(小町・大町)

大きい地図を見るには・・・
右上のフルスクリーンをクリック。






鎌倉:寺社・史跡巡り


鎌倉手帳
(鎌倉情報トップ)

鎌倉の紅葉 新年イベント


カスタム検索