鎌倉手帳(寺社散策)

秋の鎌倉 鎌倉検定



中先代の乱と足利尊氏
〜鎌倉:浄光明寺の歴史〜

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







 鎌倉幕府滅亡後の鎌倉は、1334年(建武元年)、後醍醐天皇の皇子成良親王を擁して下向していた足利尊氏の弟直義が治めていた。

 翌年、北条高時の遺児時行が反乱を起こし(中先代の乱)、直義や成良親王は鎌倉を逃れた。

 その折、東光寺(現鎌倉宮)に幽閉されていた護良親王直義によって殺されている(参考:護良親王の墓)。


足利尊氏


 鎌倉は、一時的に時行によって占領されたが、尊氏が三河まで撤退していた直義と合流し、時行を破って、鎌倉を再び足利氏の手中とした。

 この時、直義と行動を共にした成良親王は京に帰されている。

 尊氏は、時行討伐を行う際、後醍醐天皇に時行討伐と同時に、征夷大将軍の要請を行うが拒否されてしまう。

 鎌倉に入った尊氏は、後醍醐天皇の上洛命令を無視し、「建武の新政」からの離脱を決意した(蟄居していた浄光明寺で決意したという。)。

 その後、新田義貞後醍醐天皇の命により鎌倉ヘ向けて出兵するが、尊氏はこれを撃破し、一気に京へ上り、京を支配下に置く。





〜足利尊氏の願文〜

 1336年(建武3年)8月27日、足利尊氏は自筆の願文を京都清水寺に奉納している。
 内容は、「自分は仏の加護を賜り、今後の果報は弟の直義に与えていただきたい」といったもの。

 その前年、尊氏は、後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り、中先代の乱を平定したため、一時、浄光明寺に蟄居したという経緯もある。

 尊氏の願文奉納のきっかけは定かではないが、後醍醐天皇との戦いに勝利した時期の願文のため注目されているという。


清水寺
清水寺



 1333年(元弘3年)、得宗北条高時が自刃したことによって、鎌倉幕府は滅亡したが、高時の子時行は落ちのび、のちに諏訪頼重に担がれ中先代の乱を起こし、一時鎌倉を占領する。

 その後も北畠顕家や新田義貞の遺児とともに足利尊氏と戦うが、捕らえられ龍ノ口で斬首された。

 これによって北条得宗家が滅亡する。


北条得宗家の滅亡〜最後の得宗北条時行〜(okadoのブログ)

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浄光明寺
浄光明寺

 浄光明寺は、1251年(建長3年)、北条長時(のちの六代執権)によって再興された真言宗の寺。
 足利尊氏直義兄弟にゆかりのある寺でもある。


鎌倉市扇ガ谷2−12−1
0467(22)1359

鎌倉駅西口から徒歩15分



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