鎌倉手帳(寺社散策)
鎌倉七口:朝夷奈切通
〜鎌倉の古道〜
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岡戸事務所
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朝夷奈切通は、鎌倉と金沢(六浦)を結ぶ切通。
鎌倉七口
の一つ。
和田義盛
の三男で、豪傑で知られた朝比奈三郎義秀が一夜にして開いたとの伝承があり、そのため朝比奈峠の名が現在も残っている(参考:
伝説!朝比奈三郎義秀
)。
実際は、三代執権
北条泰時
が開いた。
六浦からの塩がこの道を通って鎌倉に運ばれたことから「塩の道」とも呼ばれた。
鎌倉側の入口には、
鎌倉五名水
の一つ
梶原太刀洗水
がある。
鎌倉の紅葉・黄葉
朝夷奈切通入口の切通庚申塚(いろんな鎌倉)
大太刀川沿いのやぐらと石仏・・・朝夷奈切通(いろんな鎌倉)
◎
梶原太刀洗水
朝夷奈切通の岩肌から湧き出る
鎌倉五名水
の一つ。
梶原景時
が
上総介広常
を討ったあと、この水で太刀の血を洗い流したという。
★
詳しくは写真をクリック
梶原太刀洗水〜鎌倉五名水〜(okadoのブログ)
◎上総介広常(平広常)
上総介広常
は、
源頼朝
が
石橋山の戦い
で敗れ、安房に渡り体制を整えて鎌倉入りするときに従った武将。
しかし、1183年(寿永2年)12月、
頼朝
に対する傲慢な態度が災いし、謀反の疑いをかけられ
梶原景時
に暗殺された。
横浜市金沢区の朝比奈のバス通りにある五輪塔(「上総介塔」)は、
上総介広常
の墓ともいわれている。
源頼朝と上総介広常(okadoのブログ)
暗殺された上総介広常(okadoのブログ)
源頼朝のための願文・・・上総介広常(okadoのブログ)
〜六浦からの「塩の道」〜
仁治元年(1240年)11月、幕府は、鎌倉と六浦を結ぶ往環路を造ることを決定し、翌年4月5日に工事が着手された。
三代執権
北条泰時
自らが工事を指揮したと伝えられている。難工事であったため、工事が進まず、
泰時
は自分の馬で土石を運び人夫を励ましたという。
切通を整備する理由の一つに「塩の道」を造る必要があったことがあげられる。
鎌倉の海は塩田にはむかなかったことから、六浦から塩を運搬する必要があった。
朝夷奈切通が、重要な「塩の道」であったことを示すものとして、
光触寺
の「塩嘗地蔵の伝説」がある。
☆伝説!塩を嘗めたお地蔵さん☆
朝比奈峠を越えてやってきた塩売りが、お地蔵さんに塩を供えて置いたところ、帰りには塩がなくなっていた。お地蔵さんが嘗めたという言い伝えがある(
光触寺
:塩嘗地蔵)。
伝説の塩嘗地蔵〜光触寺〜
(okadoのブログ)
〜防御施設としての切通〜
朝夷奈切通は、物資輸送の他に、鎌倉東部の守る城郭としての性格ももっていたと考えられている。
切通は、鎌倉への出入口であるとともに外部からの攻撃に対する重要な防禦拠点であった。
〜北畠顕家の鎌倉攻め〜
1337年(建武4年)、
足利尊氏
から京を奪還するため、陸奥から西上してきた北畠顕家は、朝夷奈切通を突破し鎌倉に入り、斯波家長の守る
杉本城
を落として鎌倉を攻略した(参考:
北畠顕家の鎌倉攻め
)。
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熊野神社
鎌倉の紅葉・黄葉
熊野神社
熊野神社は、
源頼朝
が鎌倉の鬼門である朝比奈峠に熊野三社大明神を勧請したことにはじまる。
朝夷奈切通を開拓した三代執権
北条泰時
が社を建立し、現在は朝比奈町の鎮守として崇敬されている。
静寂の熊野神社から十二所果樹園を経て光触寺へ
鼻欠地蔵
横浜市金沢区の朝比奈のバス通りにある磨崖仏。風化して鼻が欠け落ちてしまったことから付けられた名。
『新編鎌倉志』にも描かれている。
(大道中学校バス停前)
六浦道その1(筋違橋〜光触寺)
六浦道その2(朝夷奈切通)
六浦道その3(上総介塔〜瀬戸神社)
静寂の熊野神社から十二所果樹園を経て光触寺へ
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